第47話 仕入れに行ってくる
《からすの止まり木》の店内は、重苦しい沈黙に包まれていた。
窓の外では、何も知らない街人たちが平穏な日常を謳歌している。パンの焼ける匂いと、市場の喧騒。
だが、カウンターの奥で王都監察官イリスがもたらした情報は、その平穏を根底から覆すものだった。
「……ミレーユからの暗号通信によれば、帝国軍の正規部隊が国境付近で大規模な集結を始めています。その規模は、これまでの工作部隊とは比較になりません」
イリスは机の上に広げた地図を指差しながら、苦渋に満ちた表情で告げた。
「狙いは、間違いなくこのラステルです。カイゼル中佐の工作が失敗した今、帝国は力技でこの街を地図から消し去る気です。……そして、王都の対応は絶望的に遅い。内通者の妨害もあり、援軍が派遣される気配は全くありません」
王都に見捨てられた辺境の街。
帝国の大軍が押し寄せれば、木造の家屋が立ち並ぶラステルなど、半日も持たずに灰燼に帰すだろう。
「……そうか」
グレンは半分閉じた目のまま、短く応じた。
彼はゆっくりと立ち上がり、普段身につけている古いエプロンの紐を解き始めた。
「店主さん……?」
リナが不安げな声を上げる。
グレンはエプロンをカウンターの隅に丁寧に畳んで置くと、店の奥から古びた革のコートを取り出し、袖を通した。
「……俺が、行ってくる」
「行くって……帝国にですか!? 一人で!?」
リナが悲鳴のような声を上げた。
王都の暗部さえも退けたグレンだが、相手は軍事国家そのものだ。たった一人で乗り込むなど、自殺行為に等しい。
「俺も行く!」
ノアがバンッとカウンターを叩いて身を乗り出した。
「足手まといにはならねえ! 俺の斥候の技術は、絶対に役に立つはずだ! 一人で行かせるかよ!」
必死に食い下がるノア。
だが、グレンは静かに首を振り、ノアの頭に無骨な手を置いた。
「……駄目だ。お前は置いていく」
「なんでだよ!」
「足手まといだからじゃない。……ここでお前たちにしかできない『仕事』があるからだ」
グレンの真っ直ぐな視線を受け、ノアは言葉を詰まらせた。
「ノア。お前は、帝国の暗号の断片を覚えているな。街に残って、奴らの通信を傍受しろ。何かあればイリスに伝えろ」
グレンはノアの肩を軽く叩き、次にイリスを見た。
「イリス。あんたは王都の内通者調査を急いでくれ。帝国の動きを遅らせるには、王都の腐敗を内側から切り崩す必要がある」
「……分かりました。ミレーユと連携し、必ず尻尾を掴み出してみせます」
「リナ」
グレンに名前を呼ばれ、リナが肩をビクッと跳ねさせた。
「店は休業にするな。お前はここで、街の連中との連絡網を維持しろ。何かあれば、マルタ婆さんたちと協力して、孤児院の子どもたちを逃がすんだ」
グレンはそれぞれに、明確な『役割』を与えた。
単なる足手まといとして切り捨てるのではなく、盤上の重要な駒として、彼らをこの街に残す。
それが、グレンなりの信頼の証だった。
「……なら、私も薬草を調合し続けなければなりませんね」
静かな声でそう言ったのは、薬師のセラだった。
彼女はカウンターに、いくつかの小さな革袋をことりと置いた。
「毒消し、止血剤、そして極度の疲労を麻痺させる薬草です。……少し苦いですが、我慢して飲んでください」
「……助かる」
グレンはセラの用意した薬草袋を、コートの内ポケットにしまった。
「これも持っていってください」
イリスが、王国の正式な紋章が押された分厚い羊皮紙を差し出した。
「王都の監察局が発行する『特例通行証』です。……裏面の偽造印を見せれば、帝国側の関所でも『王都の内通者からの使者』として顔パスで通れるはずです。ミレーユが用意してくれました」
「ああ。借りができたな」
グレンは通行証を受け取り、小さく息を吐いた。
「……じゃあ、行ってくる」
「店主さん」
リナが、泣きそうな顔でグレンの背中を呼んだ。
グレンは振り返り、いつもと変わらない、少し眠そうな目で彼女を見た。
「……少し遠くまで、仕入れに行ってくるだけだ。店番、頼んだぞ」
「はい……っ。いってらっしゃいませ、店主さん!」
リナは涙を拭い、気丈な笑顔でグレンを見送った。
*
《からすの止まり木》を出たグレンは、夜の帳が下り始めた南通りを静かに歩いていた。
だが、その歩みは街の外へと向かう前に、ふと裏路地へと逸れた。
(……一匹、迷い込んでいるな)
グレンの鋭い五感は、街の屋根の上に潜む微かな『異物』の気配を捉えていた。
帝国軍の先遣隊から放たれた斥候。
彼は屋根の陰から《からすの止まり木》の様子を監視し、手元の『小型通信魔導具』を使って、帝国本陣へと街の状況を送信しようとしていた。
「……防衛網に変化なし。これより、本隊の突入要請を……」
斥候の男が魔導具の水晶部分に魔力を流し込もうとした、その瞬間。
「……誰に報告するつもりだ」
背後から、ひどく静かな声が降ってきた。
男が驚愕して振り返るより早く、グレンの手から一本の『荷札』が放たれた。
荷札の先端についている細い針金。
それが、男が手にしていた通信魔導具の、水晶と基盤の『隙間』に正確に突き刺さった。
バチィッ!!
「なっ!?」
針金が魔力の回路をショートさせ、通信魔導具が男の手の中で小さな火花を散らして沈黙する。
報告を阻止された男が、咄嗟に短剣を抜こうとした。
だが、グレンの動きには一切の無駄がない。
彼は男の腕を絡め取ると、持っていた『短い縄』を男の首元に素早く巻き付け、音を立てずに強烈に引き絞った。
「が、はっ……」
頸動脈を的確に圧迫され、斥候の男は悲鳴を上げることもできず、白目を剥いて屋根の上に崩れ落ちた。
グレンは気絶した男を無造作に縛り上げると、その体を路地裏の衛兵詰所の前に放り捨てた。
魔法も派手な剣撃も使わない。日用品の針金と縄による、静かで確実な処理。
これで、帝国への通信は途絶し、ラステルへの即時襲撃は少なくとも数日は遅れるはずだ。
「……待っていろよ、皇帝」
グレンは冷たい風が吹く夜空を見上げ、独りごちた。
街を数字で殺そうとした軍事国家の頂点。
その首を獲るため、元処刑人は単身、闇の中へと足を踏み出した。
*
数日後。
王国と帝国の境界にそびえ立つ、ガルディア帝国側の巨大な関所。
重武装の帝国兵たちが目を光らせる中、古びた革コートを着た無精髭の男が、徒歩でゆっくりと近づいてきた。
「止まれ! 何者だ。ここはガルディア帝国領である。怪しい者は容赦なく斬り捨てるぞ!」
槍を突きつける帝国兵に対し、男――グレンは、懐からイリスに渡された特例通行証を無造作に取り出し、兵士の目の前に提示した。
「……」
兵士が通行証の裏面にある『特定の偽造印』を確認し、微かに顔色を変えた。
王都内部に潜む、帝国への協力者からの使者を意味する印。
「お、お前は……何用で帝国へ来た」
兵士の問いかけに、グレンは半分閉じた目で、極めて平坦な声で答えた。
「……ただの雑貨屋だ。少し、仕入れにな」
その言葉の裏に隠された恐るべき殺意に、帝国兵が気づくはずもなかった。
王国最恐の執行人が、ついに帝国の地へとその足を踏み入れたのだった。




