第45話 銀狼の首輪
辺境都市ラステルを完全に崩壊させるため、ガルディア帝国諜報部《銀狼機関》指揮官カイゼル・ロートは、ついに最終計画を発動した。
「偽の避難命令を全区画へ伝達。同時に、商人組合の名を騙って偽の薬と食料を配給しろ。……暴動と恐慌の連鎖で、街のインフラを中から破裂させる」
カイゼルの冷徹な指示が、蜘蛛の巣のように張り巡らされた連絡網を通じて街の各所に潜む工作員たちへと伝達される。
都市を数字で見る男の、最も合理的で凶悪な『同時多発的混乱』の創出。それが彼の必殺の刃だった。
だが、カイゼルの計算した数字は、今日、この街の住人たちによって完全に狂わされることとなる。
「皆、その命令書に従ってはいけません!」
南通りの広場で、王都監察官イリスの通る声が響き渡った。
彼女は、偽の役人が読み上げていた避難命令書をひったくり、群衆に向けて高く掲げた。
「この封蝋の印は偽造です! 本物の王都公式印には、右上に肉眼では見えないほどの小さな欠けがある。この命令は、あなたたちを袋小路へ誘導するための罠です!」
法の専門家であるイリスの堂々たる宣告に、パニックになりかけていた街人たちが足を止める。
同じ頃、市場の広場では、偽の薬と食料を配ろうとしていた工作員たちの前に、薬師のセラが立ち塞がっていた。
「その薬はただの小麦粉です! 飲んでも気休めにしかなりません!」
セラは工作員たちが配っていた薬の樽を容赦なくひっくり返し、代わりに自らが荷車で運んできた大鍋の蓋を開けた。
「薬なら私が用意しました。ひどく苦いですが、確実に効きます! 食料も、マルタさんのところで焼いた安全なパンがあります!」
セラの言葉に、不安に駆られていた人々が安堵の表情を浮かべて彼女の元へと集まっていく。
さらに、混乱する大通りでは、リナが大きな声で人々の誘導を行っていた。
「落ち着いてください! 東の広場は危険です、安全な避難先は旧商人組合の建物です! お年寄りと子どもを優先して、順番に動いてください!」
《からすの止まり木》の店番として、毎日多くの客と顔を合わせ、売上帳で数字と配置を管理しているリナの頭の中には、街の正確な地図が入っていた。
彼女の的確で迷いのない声が、怯える人々の足元に確かな道筋を照らしていく。
そして、街の暗がりである路地裏では。
「……おう、お前ら。次の指示はこっちの路地を抜けて北だぜ」
スリの少年ノアが、伝令として走ってきた工作員に巧みに偽のメモをすり渡し、彼らを次々と『衛兵が待ち構えている行き止まり』へと誘導していた。
帝国の複雑な連絡網の経路は、路地裏を知り尽くした少年によって、完全に逆流させられていたのだ。
*
街の外れにある、銀狼機関の司令所。
静謐だったはずのテントの中は、想定外の事態に完全に凍りついていた。
「中佐! パニックが起きません! 避難命令は偽造を見破られ、偽薬はすり替えられ……工作員たちからの連絡も次々と途絶しています!」
部下の報告に、カイゼルの表情が初めて微かに歪んだ。
「……なぜだ。私が構築した数字の連鎖が、なぜたった一つの街でここまで完全に崩される?」
カイゼルが呟いた、その直後だった。
「……街を数字でしか見ないからだ」
テントの入り口の幕が揺れ、黒いエプロン姿の男――グレンが音もなく姿を現した。
その手には、司令所を警備していたはずの兵士たちを縛り上げた『革紐』の束が握られている。
「なっ、貴様……黒縄! なぜこの場所が分かった!」
「……連絡網の結び目を、逆に辿っただけだ」
グレンは半分閉じた目で、カイゼルを見据えた。
ノアが逆流させた伝令の動き。イリスが特定した偽造印の出処。セラが潰した偽薬の流通経路。
街の人々がそれぞれの役割を果たして弾き返した『線』を、グレンは一本に束ね、この司令所という『結び目』へと辿り着いたのだ。
「……フッ。なるほど。私の作戦を全て逆手に取ったか」
カイゼルは護身用の短銃を抜くこともなく、冷たい笑みを浮かべた。
「だが、私をここで殺したところで何も変わらない。私は帝国の軍人だ。私一人が消えても、帝国という巨大な機構は止まらないぞ」
「……殺さない」
グレンは懐から、一束の分厚い書類を取り出し、カイゼルの机の上に無造作に放り投げた。
それは、カイゼルのテントの奥に隠されていた、銀狼機関の『作戦記録』と『帝国本国との暗号通信簿』だった。
「なっ……それを、どうする気だ」
初めてカイゼルの顔色が変わる。
グレンは極めて平坦な声で告げた。
「……もう、送った」
「なに?」
「お前が作った連絡網を使って、その記録の写しを全て公開した。王都の監査局、街の商人組合、そして……『帝国の情報統括部』へ同時にな」
その言葉の意味を理解し、カイゼルの知的な瞳が見開かれた。
帝国工作員としての全記録、偽装経路、そして暗号の解読キー。それら全てが白日の下に晒されたのだ。
王国と街からは、大罪人として永劫に追われる。
そして、情報漏洩という最悪の失態を犯した工作員を、帝国が許すはずがない。本国からも、粛清の対象として命を狙われることになる。
「……お前の経路は、これで全て消えた」
都市を数字と記録で殺そうとした男が、自分自身の残した記録と経路の公開によって、どちらの国にも戻れない『社会的な死』を与えられたのだ。
剣も魔法も使わない。
それは、元処刑人が選んだ、冷酷で完璧な選別だった。
「……く、ふふっ」
全てを失ったテントの中で。
カイゼルは崩れ落ちることも、命乞いをすることもなく、肩を震わせて低く笑い始めた。
「……見事だ。私の理性を、完全に上回ったか」
カイゼルは狂気すら孕んだ目で、グレンを見つめ返した。
「……私では、あなたという規格外の存在を処理するには足りませんでしたか。……ならば、仕方がないですね」
銀狼機関の指揮官は、薄暗いテントの中で、まるで預言者のように最後に告げた。
「では、皇帝陛下が……直接、あなたを欲しがるでしょう」
辺境の小さな街を巻き込んだ暗闘は終わった。
だが、それは同時に、大陸を支配する最大の怪物――ガルディア帝国皇帝の視線が、一人の雑貨屋の親父へと向けられた瞬間でもあった。




