第44話 処刑台を組むのはどちらか
辺境都市ラステルから西へ数キロ。
岩肌が剥き出しになった、すり鉢状の廃採石場。
そこは、帝国諜報部《銀狼機関》指揮官カイゼル・ロートが、グレン・ガロウズというただ一人の男を殺すためだけに構築した『完璧な戦場』だった。
カイゼルは採石場を見下ろす高台に折りたたみ椅子を置き、冷徹な瞳で眼下の闇を見つめていた。
彼の足元には、地形を完全に網羅した地図と、部隊の配置図が広げられている。
入り口を塞ぐための第一陣。高所から矢を射掛けるための第二陣。そして、致命の一撃を放つ帝国魔術師の第三陣。
逃走路には幾重にも鳴子と罠が張られ、死角となる場所には監視兵が配置されている。
計算し尽くされた殺戮の陣形。一個小隊を丸ごと呑み込めるほどの殺意の網だ。
「……来ます。対象、単独で採石場入り口を通過」
副官の報告に、カイゼルは短く頷いた。
グレンは逃げなかった。街を守るため、自らこの死地へと足を踏み入れたのだ。
「……哀れな男だ」
カイゼルは懐中時計を確認し、感情のない声で呟いた。
「個人の武力がどれほど突出していようと、組織的な戦術と地形の優位性の前では、ただの誤差に過ぎない。……始めろ」
カイゼルの命令が下り、採石場に伏せていた伏兵たちが一斉に動き出そうとした。
だが。
カイゼルの計算した『数字』は、この瞬間から少しずつ、しかし確実に狂い始めていた。
「……おい、どうした? なぜ灯りが消える?」
採石場の各所に配置されていた監視兵たちが、戸惑いの声を上げた。
彼らが持っていた監視灯の火が、予定された燃焼時間を待たずに、次々とパツンと消えていったのだ。
油切れではない。
グレンは戦場に姿を現すよりずっと前、音もなくこの採石場に先行して侵入し、監視兵たちのランタンの『油芯』を、外から見えないように短く切り揃えていたのだ。
芯が短ければ、油を吸い上げられずに火はすぐに消える。
計算されていた視界の時間が狂い、採石場は予定外の深い闇に包まれた。
「慌てるな! 闇に乗じて来るぞ、弓兵、一斉射撃!」
前線指揮役の男が怒鳴り、高所に配置されていた弓兵たちが一斉に弦を引き絞った。
足音のした方向へ、数十本の矢が放たれる。
だが、空を裂くはずの矢の音は、ひどく鈍く、無惨なものだった。
「な、なんだ!? 矢が、真っ直ぐ飛ばない……!」
射出された矢は、風の抵抗を受けて明後日の方向へと失速し、あるいは力なく地面に突き刺さった。
弓兵たちが慌てて矢筒の中を確認すると、矢の羽がボロボロと剥がれ落ちていた。
「接着剤が……溶けている?」
それもグレンの細工だった。
湿気の多い採石場の環境を利用し、矢羽根を止めている『動物性の接着剤』の隙間に、わずかな塩水と溶剤を塗り込んでいたのだ。
湿度と化学反応で弱らされた接着剤は、弦を弾いた衝撃に耐えきれず、空中で矢羽根を分解させた。
「ええい、罠の方へ誘導しろ! そこなら嫌でも足が止まる!」
指揮役が焦燥を滲ませて叫ぶ。
だが、暗闇の中でグレンの足音は、罠が密集している地帯を『完全に避けて』進んでいた。
「馬鹿な……なぜ罠の位置が分かる!?」
「……見え見えだ」
暗闇の底から、グレンの平坦な声が響いた。
罠の杭や鳴子の糸。それらが設置されている場所には、薄く『白墨粉(チョークの粉)』が塗られていた。
そして、その粉の上には、罠を設置した帝国兵自身の『手形』が、闇の中でうっすらと白く浮かび上がっていたのだ。
「設置者の手形を残したまま罠を張るなど、素人の仕事だ」
グレンは罠の隙間を悠々と通り抜け、一切の無駄なく第三陣――帝国魔術師たちの懐へと肉薄していた。
「ひぃっ! ま、魔術師部隊、撃てッ!」
指揮役が絶叫する。
三人の帝国魔術師が、慌てて杖を構え、腰に下げた『触媒袋』に手を伸ばした。
発動を早めるための、あらかじめ小分けにされた魔力触媒。それを取り出し、杖に込める。
いつもの、流れるような動作のはずだった。
だが。
「……あれ?」
魔術師の一人が、触媒袋の紐を引こうとして硬直した。
解けない。
袋の口を縛っていた紐の結び目が、いつもと『左右逆』に結び直されていたのだ。
「なっ、結び目が……固くて解けな……!」
無意識の手の動き(マッスルメモリ)に頼っていた彼らは、逆結びの紐を前にして、致命的な『数秒の遅れ』を生じさせた。
魔法使いの初動を遅らせるには、それで十分すぎる時間だった。
シュッ!
闇の中から、一本の『革紐』が蛇のように飛び出した。
「がはっ!?」
革紐は、触媒を取り出そうと焦っていた指揮役の首に深々と巻き付き、そのまま強烈な力で後方へと引き倒した。
ドサッ!
「ひ、ひぃぃ……っ!」
「……動くな。魔法を唱えれば、こいつの首が折れる」
地面に引き倒された指揮役の背中を、グレンの重い革靴が踏みつけていた。
革紐は限界まで引き絞られ、指揮役の顔は紫に鬱血している。
魔術師たちは杖を構えたまま、完全に動きを止めた。
雑貨屋で扱う油芯、接着剤、白墨粉、そして袋の紐。
それらのごくありふれた日用品の知識と、生活に根ざした物理法則の数々が、帝国の誇る軍事力を完全に解体していた。
「……」
高台の上。
その一連の光景を無言で見下ろしていたカイゼルは、手元にあった配置図からゆっくりと顔を上げた。
自分が構築した完璧な処刑台。
それが、敵が足を踏み入れる前に、すでに内側から『壊されていた』という事実。
グレンはカイゼルの処刑台に乗ったのではない。カイゼルの処刑台の部品を利用して、自らの処刑台を組み直していたのだ。
カイゼルの冷たい瞳の奥で、何かが歪んだ。
彼は怒るでもなく、恐怖するでもなく、ただ薄く、楽しげに笑い声を漏らした。
「……くっ、ははははっ」
カイゼルは折りたたみ椅子から立ち上がり、眼下で指揮役を踏みつけているグレンに向かって、拍手を送った。
「素晴らしい。……見事だよ、グレン・ガロウズ」
カイゼルの声は、夜の採石場によく響いた。
「英雄気取りの愚か者かと思っていたが、私の認識が間違っていたようだ。……あなたは武力で敵をねじ伏せる『戦士』ではない」
カイゼルは、自らと同じ同類の匂いを、その無精髭の男から確かに感じ取っていた。
「あなたは、私と同じだ。環境を操作し、条件を崩し、理屈で命を奪う。……あなたは戦士ではなく、都市を殺す側の人間だ」
カイゼルの言葉に、グレンは半分閉じた目をわずかに細め、無言のまま高台を見上げた。
「さあ、極上の殺し合いを続けようじゃないか、元処刑人」
カイゼルが指を鳴らす。
それは、彼が用意していた『真の罠』が発動する合図だった。




