第4話 それがお前の死因だ
油の饐えた臭いと、土埃の舞う赤鼠商会の倉庫。
床には、腕や足を砕かれ、あるいは神経を絶たれて身動きの取れなくなった二十人近い悪党たちが転がっている。
高い金で雇ったはずの専属魔術師も、詠唱の一音目すら発せられないまま、壁際で白目を剥いて沈黙していた。
商会主であるバルド・レックは、その惨状の中心で、無様にも床を這いずりながら後ずさっていた。
「ひっ、あ、ああっ……!」
背中が冷たい木箱にぶつかり、それ以上逃げられないことに絶望する。
彼の視線の先には、たった一人の男。
古びたエプロン姿の、白髪交じりの黒髪に無精髭を生やした男。
辺境都市ラステルの南通りで、さびれた雑貨屋を営むただの店主、グレン。
「ま、待て! 金か!? 金ならいくらでも払う!」
バルドは震える手で、懐から金貨の詰まった袋をいくつか取り出し、床にばら撒いた。
チャリン、チャリンと、薄暗い倉庫に鈍い音が響く。
「この倉庫にある品も、全部くれてやる! 好きなだけ持っていけ! そうだ、衛兵隊長にも口を利いてやる! 貴族の知り合いだっているんだ! 一生遊んで暮らせるようにしてやるから……っ!」
金、権力、後ろ盾。
バルドがこの街で絶対的な力を振るってきた武器を、次々と並べ立てる。
だが、グレンは床に散らばる金貨を一瞥すらしない。
グレンは無言のまま、エプロンのポケットから一冊の分厚い『帳簿』を取り出し、バルドの目の前に放り投げた。
バサリと音を立てて開いたページを見て、バルドの顔色から完全に血の気が引く。
それは、赤鼠商会が隠し持っていた裏の帳簿だった。
違法な禁制品の密輸記録、衛兵隊に渡した賄賂の額、そして――孤児たちに『焼き印』を押し、借金という名目で売り飛ばした子どもたちの売買台帳。
「な、なぜそれを……」
「……すべて押さえた。絵に描いたようなクズだな、お前は」
グレンの静かな声が、バルドの息の根を止めるように響く。
「お前が何に寄りかかり、誰を盾にしていようが、関係ない。もう誰も、お前を守らない」
バルドはガタガタと歯の根を鳴らした。
恐怖が臨界点を突破し、やがてそれは狂乱の怒りへと変わる。
「ふざけるなァッ!!」
バルドは喉が裂けんばかりの絶叫を上げた。
「俺は赤鼠商会のバルドだぞ! この街の裏側を仕切ってきた男だ! ただの雑貨屋だろうが! 底辺のゴミ屑が、俺を見下ろすなァッ!!」
肥え太った体を震わせ、必死に威圧しようと喚き散らす。
だが、グレンの表情は一切動かない。
怒りも、憐れみも、嘲笑もない。ただ、作業を遂行する職人のような静けさだけがあった。
「もともと生きているだけで害を為す害虫だ。遅かれ早かれ、こうなっただろう」
グレンは、手に持っていた赤いリボンを、静かに持ち上げた。
「何よりも……あの子を泣かせた」
そして、一切の感情を排した、死神の宣告を下す。
「それがお前の死因だ」
グレンの手が、エプロンのポケットに伸びる。
そこから取り出されたのは、使い古された不気味な『黒い縄』だった。
「ひっ、あ……いやだ、くるな、くるなァァァッ!!」
バルドの悲鳴が倉庫に響き渡る。
彼はようやく理解した。自分が喧嘩を売った相手が何者なのかを。
自分は、ただの辺境の雑貨屋を怒らせたのではない。絶対に触れてはいけない『死の具現』を自らの手で呼び覚まし、逃げ場のない処刑台へと、自分の足で上がってしまったのだということを。
黒い縄が、静かに空気を裂く。
悲鳴は、ふっ、と唐突に途絶えた。
そこにはもう、派手な流血も、肉体が損壊するような惨憺たる光景もない。
ただ、一人の悪党の命が『終わった』という、静かで確実な結果だけが残されていた。
*
翌朝。
辺境都市ラステルの中心部、衛兵詰所の前は、かつてないほどの騒然たる空気に包まれていた。
「おい、見ろよあれ……」
「嘘だろ。まさか、あの赤鼠商会の……?」
行き交う街の人々が足を止め、恐怖と驚愕に顔を歪めて、詰所の入り口を指差している。
普段は威張り散らしている衛兵たちでさえ、青ざめた顔で立ち尽くし、誰一人として近づこうとしない。
詰所の高い門。
そこに、一人の男の遺体が吊るされていた。
太った体に、不釣り合いなほどの宝石や指輪をつけた男。
この街の裏社会を牛耳っていた赤鼠商会の首領、バルド・レックだ。
彼の遺体には外傷らしい外傷はない。
ただ首には、不気味な『黒い縄』が深く食い込んでいた。
そして、吊るされたバルドの足元には、数冊の分厚い帳簿が、誰にでも読めるように開かれた状態で置かれている。
違法な密輸記録、衛兵隊との癒着の証拠、そして、孤児たちの売買台帳。
さらに、バルドの胸元には、商品管理に使われる一枚の『荷札』が短剣で突き立てられていた。
そこには、乱雑だが力強い筆致で、こう書かれている。
『子どもを商品と呼んだ商人』
街の人々は息を呑んだ。
法も正義も機能していなかったこの街で、絶対的な権力を持っていた悪党が、一晩で裁かれたのだ。
それも、一切の反撃を許さず、完全に、圧倒的に。
「……おい、まさか」
群衆の後方で、人だかりを見つめていた片足が義足の老人が、震える声で呟いた。
彼はかつて、王都の騎士団に所属していた退役兵だ。
老人の目は、バルドの首に巻き付いている『黒い縄』に釘付けになっていた。
顔は恐怖で引き攣り、義足の足がガタガタと震えている。
「間違いない……あの縄の結び方……」
王都で語り継がれる、最恐の都市伝説。
絶対に逃れられない死の象徴。
「黒縄だ……王都の処刑人が、まだ生きてやがる」
その恐怖に満ちた呟きは、朝の冷たい風に乗って、瞬く間に街へと広がっていくのだった。




