第3話 雑貨屋の在庫整理
辺境都市ラステルに夜の帳が下りる頃。
街の裏通りから少し外れた区画に、赤鼠商会の広大な倉庫があった。
表向きは運送業や倉庫業を営む彼らだが、その実態は孤児を囲い込み、盗みや密輸を行わせる犯罪組織だ。
高く積まれた木箱の中には、街の人間から搾取した金品や、帝国から裏ルートで仕入れた禁制品が隠されている。
その倉庫の裏口で、退屈そうに欠伸をしている見張りの男がいた。
手には粗悪だが刃のついた槍を持ち、足元には空になった酒瓶が転がっている。
「ちっ……なんで俺が見張りなんか」
男が愚痴をこぼし、足元の小石を蹴り飛ばそうと一歩踏み出した、その時。
ザクリ、と。
革靴の底を突き破り、男の足の甲に鋭い痛みが走った。
「あ……?」
男が声を上げるより早く、背後から伸びてきた手が、その口と鼻を分厚い麻布で完全に塞いだ。
悲鳴はくぐもった呻き声に変わり、男はパニックに陥って足をバタつかせようとした。
だが、動かない。
男の右足は、床板の隙間から突き出た一本の太い『古釘』によって、木材ごと完全に縫い留められていたのだ。
もがく男の耳元で、静かな声がした。
「……動くな。肉が裂けるぞ」
男は恐怖に目を見開き、ただ首を縦に振ることしかできなかった。
抵抗の意思が折れたことを確認すると、暗闇から現れた無精髭の男――グレンは、男の後頭部に手刀を落とし、静かに気絶させた。
グレンは剣すら帯びていない。
その古びたエプロンのポケットや腰袋に入っているのは、丈夫な麻縄、裁縫用の針、秤の分銅、そして香辛料などを詰めた小袋だけ。
『からすの止まり木』の裏の棚に転がっていた、ただの在庫品である。
だが、王都最恐と謳われた元処刑人にとって、それらはどんな名剣よりも確実な死を運ぶ道具だった。
*
音もなく、グレンは倉庫の内部へと侵入した。
高い天井の空間には、ランプの薄暗い光が点在し、十数人の荒くれ者たちがたむろしている。
酒盛りをしている者、賭け札に興じている者、持ち込んだ武器を手入れしている者。
誰一人として、死神がすぐそばまで来ていることに気づいていない。
グレンは音を立てずに木箱の上へ飛び乗り、眼下で酒を飲んでいる男たちの頭上へ、手に持っていた小袋の中身を静かに散布した。
「ん? なんだこれ、埃か……?」
「ゴホッ、ちがっ、目が、痛ぇッ!?」
男たちが異変に気づいた時には遅かった。
グレンが撒いたのは、刺激の強い香辛料の粉末と細かい灰を混ぜ合わせたものだ。
それが目と鼻の粘膜を容赦なく焼き、男たちは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして咳き込んだ。
「うおぉっ!? なんだ、敵か!?」
粉を浴びていない少し離れた場所にいた男たちが、慌てて武器を手に立ち上がる。
だが、彼らが踏み出した床には、すでにいくつもの『空き瓶』が転がされ、床板には、グレンが侵入時に薄く撒いておいた安物の油が、ランプの光を鈍く反射していた。
「あびゃっ!?」
「ぐわっ!」
慌てて突進しようとした男たちの足が、硬いガラス瓶を踏みつけて滑る。
体勢を完全に崩し、自らの体重をコントロールできなくなった男たちは、次々と床に叩きつけられた。
ゴキリ、と、受け身を取れなかった肩や膝の関節が外れる鈍い音が倉庫に響く。
「この野郎ッ!!」
混乱の最中、ただ一人無事だった大柄な男が、太い棍棒を振り上げてグレンへと突進してきた。
怒りで目を血走らせ、全体重を乗せた一撃を叩き込もうとする。
グレンは避けない。
ただ、右手に持っていた細い『裁縫糸』の端を、近くの木箱の釘に素早く引っ掛け、ピンと張った。
男のすねの高さに張られた、一本の目に見えない糸。
「死ねェッ!」
突進してきた大柄な男の足が、見事にその糸を引っかけた。
「あ?」
勢いよく走っていた足が急激に止められ、男の巨体は慣性の法則に従って、頭から前へと投げ出される。
ゴッ!!
男の顎が、石のように硬い床板をまともに叩き打った。
脳が大きく揺れ、男は白目を剥いて完全に沈黙した。
わずか数分の間に、倉庫内にいた十数人の悪党たちは、誰一人としてグレンの服の裾にすら触れることなく床に転がっていた。
*
「……なんだこの騒ぎは!」
倉庫の奥、一段高くなった荷物置き場から、豪奢なローブを着た男が姿を現した。
赤鼠商会が高い金で雇い入れている専属の魔術師だ。
手には高価な宝石が埋め込まれた杖が握られている。
魔術師は、床に転がる男たちと、その中心で静かに佇むエプロン姿の男を見て、顔を怒りに歪ませた。
「貴様か、こんな真似をしたのは! たかがコソ泥風情が、私の炎で消し炭にして――」
魔術師は杖を構え、体内から膨大な魔力を練り上げた。
魔法は強い。
常人がどれほど剣を鍛えようと、巨大な火球の前には紙切れのように燃え尽きるだけだ。
彼にはその絶対の自信があった。
「炎よ、我が――」
必殺の詠唱の、その第一音が発せられた瞬間。
グレンの右手が、鞭のように鋭く弾けた。
ヒュッ、と空気を裂く音。
指先から放たれたのは、秤に使う真鍮製の『分銅』だった。
それは弾丸のような速度で直進し、詠唱のために口を開き、無防備に晒されていた魔術師の喉仏に正確に直撃した。
「ゴフッ!?」
呼吸の要所を物理的に潰され、練り上げられていた魔力が霧散する。
詠唱が潰された。
魔術師は信じられないものを見たように目を剥き、ひゅー、ひゅーと苦しげな呼吸音を漏らす。
だが、彼はまだ諦めていなかった。
声が出せなくとも、手の動き――手印による発動補助を使えば、威力は落ちるが魔法を放つことができる。
魔術師は痛む喉を押さえながら、もう片方の手で複雑な印を結ぼうとした。
「……魔法は脅威だな」
静かな呟きと共に、グレンはすでに二歩の距離を詰めていた。
彼の手から放たれた二本目の凶器――『裁縫用の針』が、魔術師の印を結ぼうとした手の甲に深々と突き刺さる。
「ぎっ、あぁ……ッ!?」
神経を直接貫かれた痛みに、魔術師の指が痙攣して手印が完全に崩壊した。
喉を潰され、手印を封じられ、魔法を発動するためのすべての手段を失った魔術師は、絶望に顔を歪めて膝をつく。
グレンは見下ろしながら、感情のない声で告げた。
「……唱えられればな」
その言葉を最後に、魔術師は痛みと恐怖で完全に意識を手放し、床に崩れ落ちた。
*
静寂が戻った倉庫。
倒れた部下たちの奥、商会主の執務室の重い扉がゆっくりと開いた。
「おい、一体何の騒ぎだ……って、あ?」
顔を出したのは、太った体に不釣り合いなほどの宝石をつけた商会主、バルド・レックだった。
彼の目に飛び込んできたのは、惨憺たる有様だった。
高く雇ったはずの魔術師も、手練れの部下たちも、全員がただ一人のうだつの上がらない雑貨屋の店主を前に、ピクリとも動けなくなっている。
バルドの肥え太った体が、恐怖でガタガタと震え始めた。
彼の視線の先で、グレンがゆっくりと、ただ静かに歩み寄ってくる。
その手には、魔法の杖も、鋭い剣もない。
ただ、エプロンのポケットから、古びた『黒い縄』を取り出しただけだった。
バルドはその瞬間、すべてを悟った。
自分は、ただの辺境の雑貨屋に喧嘩を売ったのではない。
絶対に触れてはいけない死神を怒らせ、自らの足で、逃げ場のない処刑台へと上がってしまったのだということを。




