第2話 この手か?
「ふざけるなッ! たかが辺境の、うだつの上がらない雑貨屋だろうが!」
激しい怒鳴り声が、赤鼠商会の本部に響き渡った。
分厚いマホガニーの机を拳で叩きつけたのは、商会主のバルド・レックだ。
彼の目の前には、腕を不自然に吊った下っ端の男が青ざめた顔で立っていた。
今朝方、逃げ出した『商品』である孤児を連れ戻しに行き、逆に手首を外されて逃げ帰ってきた男だ。
「申し訳ありません、バルド様……っ! ですがあの親父、ただ者じゃありません! 目にも留まらぬ速さで、得体の知れない武器を――」
「言い訳をするな! このまま引き下がれば、我が赤鼠商会が素人の店主一人にビビッて逃げ出したと、街中で噂になるだろうが!」
バルドは太った体を揺らし、豚のような鼻を鳴らして吐き捨てた。
「おい、お前ら! 今すぐ何人か連れてあの薄汚い店に向かえ! ガキを取り返し、あの小生意気な店主は半殺しにしておけ! 見せしめだ!」
控えていたゴロツキたちが、下卑た笑いを浮かべて首を鳴らす。
辺境都市ラステルにおいて、赤鼠商会に逆らって無事で済んだ者はいない。
彼らにとって、相手がただの雑貨屋であるなら、それは造作もない「憂さ晴らし」の仕事でしかなかった。
*
その頃、雑貨屋『からすの止まり木』の裏口にある小さな生活スペース。
「ほら、冷めないうちに食べて。ノア君」
リナは、木のお椀に注いだ温かい野菜スープと、少し硬い黒パンをテーブルに置いた。
椅子に縮こまるように座っていた少年・ノアは、スープの匂いにごくりと喉を鳴らしながらも、怯えた目でリナを見上げた。
「……いいのかよ。俺なんかに」
「いいの。店主さんのおごりだから」
リナが優しく微笑むと、ノアはたまらなくなったようにパンを手に取り、夢中でスープに浸して口に運び始めた。
あっという間に平らげてしまう姿を見て、リナは悲しそうに目を伏せた。
どれほどひもじい思いをしてきたのか、想像に難くない。
「ごちそうさまでした……あのさ」
一息ついたノアは、ぽつりとこぼした。
「俺、やっぱり出ていくよ」
「どうして?」
「このままここにいたら、あの商会の奴らが絶対に戻ってくる。あんたたちまで、酷い目に遭わされちまう。俺のせいで……」
ノアは自分の細い腕に刻まれた、赤いネズミの焼き印を隠すように押さえた。
震える彼の手を、リナは両手でそっと包み込んだ。
「逃げても、また捕まるだけよ。あの人たちは、その印がある限りどこまでも追ってくるわ」
「でも……っ!」
「大丈夫」
リナは、店の奥で黙々と在庫の確認をしているグレンの背中を見つめた。
ただの古びたエプロンを着た、無愛想なおじさん。
けれど、今朝見せたあの底知れぬ静けさが、リナに奇妙な安心感を与えていた。
「店主さんが、きっと何とかしてくれるから」
*
昼下がり。
リナは足りなくなった保存食の買い出しのため、ノアを連れてすぐ近くの市場へ出ていた。
店内に一人で残すよりも、自分の目の届く範囲に置いておきたかったからだ。
だが、それが裏目に出た。
「おっとォ? うちの逃げ出した『商品』が、こんな所で油を売ってるとはいい度胸だなぁ!」
路地裏から、柄の悪い男たちが三人、ぞろぞろと現れた。
赤鼠商会のゴロツキたちだ。
彼らはニヤニヤと下品な笑いを浮かべ、退路を塞ぐように扇状に広がる。
「ひっ……!」
「ノア君、私の後ろに!」
リナは咄嗟にノアを庇い、男たちの前に立ち塞がった。
「どけよ小娘。そいつは俺たちの商会の所有物だ。お前らみたいな底辺の雑貨屋が関わっていい相手じゃねえんだよ」
「人、を……モノみたいに扱わないで!」
リナは震える声で、それでも気丈に叫んだ。
その態度が、男のチンピラ根性を刺激した。
「生意気言ってんじゃねえぞ、くそビッチが!!」
男の一人が、大きく腕を振りかぶり、リナの頬を力の限りに殴りつけた。
「きゃあっ!」
乾いた音が響き、リナの華奢な体が石畳に投げ出される。
買ったばかりの野菜が散らばり、リナの白い頬が赤く腫れ上がった。
「リナ姉ちゃん!」
「うるせえガキ!」
ノアが叫ぶが、男たちは意に介さない。
口の中に血の味が広がる。
リナは痛みに耐え、絶対に泣くまいと唇を強く噛み締めた。
ここで泣いたら、ノアがもっと絶望してしまう。
「おい、その小娘も顔は悪くねえ。一緒に売り飛ば――」
男が下卑た言葉を紡ごうとした、その時。
「……」
路地の入り口に、一つの影が立っていた。
エプロン姿の、無精髭の男。
グレンだ。
彼はゆっくりと、音もなく歩み寄ってくる。
その手には剣もなく、杖もない。
ただ、半分閉じたような眠そうな目が、殴った男を真っ直ぐに捉えていた。
「店主、さん……」
リナはグレンの姿を見た瞬間、張り詰めていた糸が切れたように、こらえていた涙を一筋だけこぼした。
「あ? なんだてめえ。その小娘の知り合いか?」
殴った男が、鼻で笑いながらグレンに向き直る。
だが、次の瞬間。
男の顔から、さっと血の気が引いた。
(な、なんだこいつは……!?)
グレンは何も発していない。怒鳴ってもいない。
ただ静かに歩いてくるだけだ。
それなのに、男の生存本能が『これ以上この男の視界にいてはならない』と警鐘を鳴らしていた。
まるで、巨大な死神に見下ろされているかのような、圧倒的な重圧。
「チッ……おい、今日はこのくらいにしておくぞ! ズラかるぜ!」
男は恐怖を誤魔化すように叫び、踵を返して逃げ出そうとした。
グレンは追わない。
慌てて追う必要がないからだ。
「あびゃっ!?」
男が路地を曲がろうと強く踏み込んだ瞬間、その足が不自然に宙を舞った。
石畳の上に、ぬるぬるとした透明な液体が撒かれていたのだ。
グレンがこの場に来る直前、彼らが逃げるルートを予測し、あらかじめ撒いておいた『濃縮した石鹸水』である。
男は勢いよく宙に浮き、受け身を取る暇もなく、背中から強かに石畳に叩きつけられた。
「グガッ……!?」
肺から空気が抜け、男が苦悶の声を上げる。
そこに、静かな足音が近づいてきた。
倒れ伏した男の右手の甲。
リナの頬を殴りつけた、その拳。
グレンは、底の硬い革靴で、その手の上に静かに足を乗せた。
「この手か?」
淡々とした、感情のない声。
次の瞬間、グレンは一切の躊躇なく、全体重を乗せて踏み躙った。
メキッ、バキッ!!
「ギィヤアアアアアアアアアアアアアアアアッ!?」
骨が粉々に砕ける短い音と、鼓膜を劈くような絶叫が路地裏に響き渡った。
男の右手は完全に原型を留めないほどに潰れ、二度と物を握ることも、人を殴ることもできない肉の塊と化していた。
あまりの惨劇に、残りの二人のゴロツキは悲鳴すら上げられず、仲間を見捨てて蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていった。
グレンは潰れた手から足を退け、静かにリナの元へ歩み寄る。
「……立てるか」
「はい……」
*
店に戻ると、グレンはカウンターの奥から小さな瓶を取り出した。
「……冷たいぞ」
グレンの指先が、薬草の匂いがする緑色の軟膏を、リナの赤く腫れた頬にそっと塗る。
「痛っ……でも、大丈夫です。ありがとうございます」
「……」
グレンは何も言わず、ただ丁寧に薬を塗り込んだ。
そして、部屋の隅で震えているノアの方へと視線を向ける。
「ノア」
「……はい」
「今夜は、絶対に店から出るな」
それは、静かだが、絶対に逆らえない響きを持った命令だった。
グレンはそれだけを言い残すと、店の奥の陳列棚へと向かった。
彼の手が、棚の一番奥に隠されるように置かれていた古い木箱に伸びる。
木箱の中に入っているのは、使い込まれた不気味な『黒い縄』。
それを静かに手にとったグレンの目は、すでに雑貨屋の親父のものではなく、王都で恐れられた死神――『黒縄の執行人』の目になっていた。




