第1話 雑貨屋のおやじが、なんでだよ!?
油の饐えた臭いと、宙を舞う白い粉塵。
辺境都市ラステルを裏から牛耳る『赤鼠商会』の広大な倉庫は、凄惨な有様だった。
だが、濃厚な血の匂いはない。
刃物で斬り裂かれた者も、派手な炎の魔法で焼かれた者もいないからだ。
床には二十人近い屈強な悪党たちが転がっている。
ある者はただの麻縄で手足を縛られ、
ある者は足の甲に太い釘を打たれて縫い留められている。
ある者は床に撒かれた油と空き瓶で足を滑らせて自重で関節を砕き、
ある者は顔面に浴びた粉袋の中身にむせて白目を剥いていた。
部屋の隅では、商会が高い金で雇ったはずの専属魔術師が、壁に寄りかかって気絶している。
彼の喉元にはくっきりと紫色の痣があり、自慢の炎魔法の詠唱は、その詠唱が最後まで紡がれることはなかった。
「……ひっ、ああ……っ!」
太った身体に不釣り合いなほどの宝石や指輪をじゃらじゃらと着けた商会主、バルド・レックは、無様にも床を這いずりながら後ずさった。
背中が冷たい木箱にぶつかる。もう逃げ場はない。
「雑貨屋のおやじが、なんでだよ!?」
恐怖で引き攣った声で、バルドは叫んだ。
彼の視線の先。
倒れ伏す部下たちの間を縫って、一人の男が静かに歩いてくる。
白髪交じりの黒髪に、無精髭。
少し猫背で、古びたエプロンを身につけた、五十に届くかどうかという年齢の男。
どこからどう見ても、ただのうだつの上がらない雑貨屋の店主だった。
剣すら帯びていない。
男――グレンは、バルドの足元に落ちていた小さな『赤いリボン』を拾い上げた。
土で汚れ、踏みにじられたそれを見るグレンの目は、ひどく眠そうでありながら、絶対零度の冷たさを宿している。
「……あの子を泣かせたな」
低く、淡々とした声だった。
バルドには、その言葉が何を意味するのか分からなかった。ただの雑貨屋が、なぜ単身で商会を壊滅させられるのかも理解できない。
ただ一つだけ、彼にもはっきりと分かることがあった。
自分はもう、絶対に助からないということだけは。
*
時間を、その日の朝へと巻き戻す。
辺境都市ラステルの南通り。
さびれた雑貨屋《からすの止まり木》の朝は、いつも通りに始まっていた。
「店主さん、また勝手に値引きしましたね?」
カウンターの奥から、呆れたような少女の声が響く。
この店で店番をしている十五歳の少女、リナだ。
彼女は手元の売上帳と木札を見比べながら、柳眉を寄せていた。
「うちは慈善事業じゃないんですよ。これじゃ利益が出ません」
「……端数をまけただけだ」
エプロン姿のグレンが、カウンターの端で古釘の仕分けをしながら短く返す。
「その端数が積もり積もって赤字になるんです。もー……」
口では文句を言いながらも、リナの表情はどこか柔らかい。
彼女は以前、貴族家の使用人として酷い扱いを受けており、逃げ出してきたところをグレンに拾われた。
明るく振る舞いながらも、時折大人の顔色を窺うような癖がある彼女にとって、この雑貨屋は唯一安心して呼吸ができる場所だった。
カラン、と入り口の鈴が鳴る。
近所の子どもが、硬貨を一枚握りしめてやってきた。
「おじちゃん、飴ちょうだい!」
「……ほらよ」
グレンは瓶から飴玉を一つ取り出し、子どもの手に乗せる。
そして、無言でもう一つ、別の味の飴玉を追加で乗せてやった。
「わぁ、おまけだ! ありがとう!」
「飴は一人一個だ。……二個目は、後で床掃除を手伝ってからにしろ」
「うん!」
子どもが嬉しそうに駆け出していくのを見送り、リナがまた大きなため息をついた。
「店主さん」
「……労働の対価の前払いだ」
そんな平和なやり取りの最中。
グレンはふと視線を動かし、奥の保存食の棚を見た。
木箱の影に、小さな人影がうずくまっているのが見える。
グレンは足音を立てずに歩み寄り、干し肉を掴もうとしていた小さな腕を、後ろからそっと掴んだ。
「っ!?」
捕まったのは、十二歳くらいの痩せこけた少年、ノアだった。
警戒心も露わにグレンを睨みつけるが、グレンの視線は少年の顔ではなく、その細い腕に刻まれた『焼き印』に向けられていた。
ネズミを象った不気味な印。
街の裏組織である『赤鼠商会』が、孤児たちに借金を背負わせて所有物としている証だった。
「離せよ! 俺は何も盗んでないぞ!」
「……まだな」
グレンは少年の腕を乱暴に払うことはせず、静かに離した。
「腹が減っているなら、店の裏の雑草を抜け。飯はその対価だ。……盗むな。見るだけにしろ」
「……え?」
ノアがきょとんとした顔をした、その時だった。
バンッ! と、入り口の扉が乱暴に蹴り開けられた。
入ってきたのは、柄の悪い男だった。腰に粗悪な剣を下げ、赤いネズミの紋章が入った腕章をつけている。赤鼠商会の下っ端だ。
「おいコラ! うちの商品が逃げ込まなかったか!」
男は土足で店内に上がり込み、陳列された木箱を蹴り飛ばした。
中に入っていた香辛料の瓶が倒れ、床に散らばる。
リナがビクッと肩を揺らし、咄嗟に後ずさった。ノアは顔面を蒼白にして、棚の奥へと身を縮める。
「お、いたぞ。うちの大事な『商品』がよォ」
下っ端の男はノアを見つけると、下品な笑いを浮かべた。
「さっさと来い。今日の分の稼ぎも足りてねえんだ、きっちり働かせてやる」
ノアが恐怖で震える中、グレンがゆっくりと男の前に立ち塞がった。
その目は、相変わらず眠そうに半分閉じられている。
「……帰れ」
「あァ? なんだてめえ、ただの雑貨屋の親父が俺に逆らう気か? 怪我したくなかったら引っ込んで――」
「店の中で、子どもを商品と呼ぶな」
グレンの静かな声には、明らかな警告が含まれていた。
しかし、大声で怒鳴らないその態度を、男は「怯えている」と勘違いした。
「うるせえんだよ! 邪魔するなら、この小娘も一緒に売り飛ばすぞ!」
男が苛立ち任せに、カウンターの奥にいたリナの髪を掴もうと手を伸ばす。
リナが短く悲鳴を上げた。
その瞬間。
グレンの右手が、ほんの僅かだけ動いた。
手首のスナップだけで投げられた『何か』が、男の伸ばした腕に巻き付く。
それは、カウンターの下に隠されていた丈夫な『裁縫用の糸』。
その先端には、秤に使う真鍮製の『分銅』が結びつけられていた。
糸が男の手首に絡みついた刹那、グレンは分銅の重みを利用して、糸を鋭く、かつ正確な角度で引き抜いた。
ゴキッ、という鈍く湿った音が店内に響く。
「あ……?」
男の動きが完全に停止した。
伸ばされた腕の手首から先が、あり得ない方向にだらりと垂れ下がっている。
関節が完全に外され、神経が潰されていた。
「あ、あああぁぁぁぁぁッ!?」
一拍遅れて、男が喉が裂けんばかりの絶叫を上げる。
痛みにのたうち回り、床を転げ回る男を見下ろしながら、グレンは糸を巻き取り、静かに告げた。
「……二度は言わない」
男は脂汗を流し、恐怖に満ちた目でグレンを見上げた。
ただの雑貨屋の親父だと思っていた男の目が、人を殺すことを何とも思っていない、底知れぬ死神の目に見えたのだ。
「ひっ……! お、覚えてろよッ!」
男は外れた手首を押さえながら、転がるように店から逃げ出していった。
静寂が戻った店内。
リナは、今の一瞬だけ見せたグレンの『別の顔』に、少しだけ怯えたような表情を浮かべていた。
ノアは信じられないものを見る目で、呆然と座り込んでいる。
グレンは何事もなかったかのように、散らばった香辛料の瓶を拾い集め始めた。
いつも通りの、無精髭の雑貨屋の親父に戻っている。
しかし。
逃げ帰った男の背中を見送ったグレンの視線は、店の奥の棚へと向けられていた。
そこには、普段の業務では決して使われない、古い『黒い縄』が静かに仕舞われている。
それが再び日の目を見る時が来たことを、グレンは静かに悟っていた。




