第39話 馬は嘘を嫌う
深い夜の森。辺境都市ラステルの外縁を囲むように広がる針葉樹林は、冷たい霧と静寂に包まれていた。
だが、その静寂は自然なものではない。
森の奥深く、街から数キロ離れた窪地に、ガルディア帝国の小規模な騎馬部隊が息を潜めていた。
数十騎の軍馬と、黒い軍衣に身を包んだ精鋭の工作兵たち。彼らは街への奇襲のタイミングを計り、闇の中で出撃の時を待っている。
これほど多数の軍馬が集まれば、通常なら嘶きや足踏みの音が響き、街の衛兵にも気づかれるはずだ。
しかし、野営地は不気味なほど静まり返っていた。
その理由は、風上に設置されたいくつかの香炉から立ち上る、青白い煙にあった。
強力な『鎮静香』。
軍馬の神経を強制的に麻痺させ、恐怖や興奮を抑え込んで大人しくさせるための特殊な香だ。帝国はこれを使い、馬の気配を完全に消して夜間移動を行っていたのだ。
「……そろそろ時間だ」
部隊を率いる小隊長が、懐中時計を確認して低く告げた。
「カイゼル中佐の計画通り、水と食料への工作で街の連中は混乱している。そこへ我々が夜襲をかけ、商人組合と衛兵の詰所を焼き払う。……かかれ」
兵士たちが音もなく立ち上がり、自分の馬へと向かう。
だが、彼らは気づいていなかった。
野営地のさらに風上、太い針葉樹の枝の上に、一人のエプロン姿の男がしゃがみ込んでいることに。
(……風向きは南東。香炉は三つか)
グレンは半分閉じた目で、野営地の配置を静かに見下ろしていた。
彼の手には、自分の店から持ち出した小さな『香辛料の袋』がいくつか握られている。
香辛料の偽装業者から押収した鎮静香の成分と匂い。グレンはそれを元に、森の中に漂う微かな匂いの筋を辿り、この野営地の正確な位置を割り出していた。
(……馬を殺す必要はない)
グレンは木の上を音もなく移動し、一番風上にある香炉の真上に位置取った。
彼が手にした袋の中身は、毒ではない。
クミン、黒胡椒、そして極度に乾燥させて粉末状にした赤唐辛子。料理に使えば風味を増すスパイスだが、使い方を変えれば立派な『武器』になる。
グレンは袋の口をわずかに開き、香炉から立ち上る熱気と煙の気流に乗せるようにして、その粉末をパラパラと振り落とした。
ジュッ……。
香炉の炭火に香辛料の粉末が触れ、一瞬だけ鋭い音が鳴る。
直後、鎮静香の青白い煙に、目に見えない強烈な刺激成分が混ざり込み、夜風に乗って野営地全体へと広がっていった。
「よし、騎乗しろ」
小隊長の合図で、兵士たちが一斉に馬の鞍に足をかけた、その瞬間だった。
ブルルルルルッ!!
先頭にいた軍馬が、突如として狂ったようにいななき、前足を高く跳ね上げた。
「なっ!? どうした、落ち着け!」
手綱を握っていた兵士が慌てて押さえ込もうとするが、馬の興奮は収まらない。
それどころか、次々と他の馬たちも連鎖するように暴れ始めた。
ヒヒィィィンッ!
「うわあっ!」
「馬鹿な、鎮静香が効いていないのか!?」
人間の数倍の嗅覚を持つ馬にとって、鎮静香の甘い匂いの中に混ざり込んだ強烈な刺激成分は、鼻腔と肺を直接焼かれるような激痛だった。
麻痺していた神経が一気に覚醒し、パニック状態に陥った馬たちは、主人の命令など一切聞かずに暴れ狂う。
「抑えろ! 手綱を離すな!」
小隊長が怒鳴るが、数十頭の軍馬のパニックはもはや人間の筋力で止められるものではない。
後ろ足で蹴り飛ばされ、あるいは鞍から振り落とされ、兵士たちが次々と泥濘に転がっていく。
前日の雨でぬかるんでいた野営地の窪地は、暴れる馬の蹄によって徹底的に踏み荒らされ、あっという間に底なしの泥沼と化していた。
「ぐあっ……足が、泥に!」
「くそっ、馬が言うことを聞かねえ! 鎮静香の炉を確認しろ!」
パニックの中、一人の兵士が香炉に近づこうとしたが、そこから立ち上る煙を吸い込んだ途端に激しく咳き込み、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして倒れ込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ! だ、駄目だ……香炉に、何か混ざって……!」
軍馬を制御するための道具が、完全に裏目に出た。
馬は嘘をつかない。鼻腔を焼く痛みに対して、彼らは生存本能のままに暴れ続けるだけだ。
「……馬は嘘を嫌う」
混乱の極みにある野営地を、木の上から静かに見下ろしながら、グレンは短く呟いた。
帝国の部隊は、剣を交えることすらなく、自分たちが乗るはずだった馬によって完全に無力化された。
泥沼の中で立ち往生し、馬の蹴りを避けるために這いつくばる精鋭たちの姿は、滑稽としか言いようがない。
街を火の海にするはずだった夜襲は、ただの香辛料の配合を崩すという、雑貨屋の日常的な知識によって完全に粉砕されたのだ。
グレンはそれ以上彼らに構うことなく、木の幹を滑り降りた。
このまま泥まみれで放置しておけば、夜明けには衛兵隊が縛り上げに来るだろう。
だが、グレンの表情に安堵の色はなかった。
彼は振り返り、森のさらに奥、別の街道の方角へと鋭い視線を向けた。
(……馬に乗っていたのは、奇襲用の部隊だけだ)
カイゼル・ロートという男が、これだけで終わるはずがない。
グレンの予感は的中していた。
暴れる馬の喧騒から遠く離れた、別の獣道。
そこを、音もなく歩く一つの部隊があった。
黒いローブに身を包んだ十数名の男たち。彼らは馬を持たず、全員が徒歩で、一直線にラステルの街を目指している。
帝国魔術師部隊。
彼らの手には杖が握られ、その首元には、銀色に鈍く光る『詠唱短縮具』が下げられていた。
物理的な破壊ではなく、圧倒的な魔力による蹂躙。
それが、カイゼルが用意していたもう一つの牙だった。
馬のいななきが届かない森の闇の中を、死の行軍が静かに進んでいく。




