第38話 王国製の毒
辺境都市ラステルの南通りに、冷たい夜風が吹き抜けていた。
セラの薬屋の奥の部屋では、ランタンの薄明かりの下、緊迫した空気が流れていた。
机の上には、グレンが廃倉庫で帝国の工作員から回収した『自決用の毒カプセル』が置かれている。
セラは小さな乳鉢でカプセルの中身をすり潰し、数種類の試薬を垂らしてその反応をじっと観察していた。
「……間違いありません」
やがてセラは、顔を上げて静かに告げた。
「この毒は、帝国で作られたものではありません。王国領内にしか生息しない『夜泣き草』の根をベースに精製されたものです。……以前、私が夫の遺品から調べた、王都の暗部が使用していた毒の成分と完全に一致します」
その言葉に、部屋の隅で腕を組んでいた王都監察官のイリスが、険しい表情で口を開いた。
「帝国の工作員が、王都暗部《灰冠局》の毒を持っている……。つまり、王都の中枢にいる何者かが、意図的に帝国と内通し、銀狼機関に物資や情報を提供しているということですね」
「ああ」
グレンは半分閉じた目で、短く同意した。
敵は辺境の街を狙う帝国の工作員だけではない。王都の安全な場所から、この国を内側から食い破ろうとしている裏切り者がいる。
「……私の薬学の知識が、こんな形で役に立つとは思っていませんでした」
セラが苦笑しながら、手元の乳鉢を片付ける。
「いや。あんたの目利きがなければ、敵の根本は見えなかった。……助かる」
グレンの静かな言葉に、セラは少しだけ目を見張り、そして小さく頷いた。
これからの情報戦において、毒や薬草の流通を見極めるセラの存在は、彼らの中で不可欠なものとなっていた。
イリスは手元のメモ帳にペンを走らせる。
「王都内部の裏切り者を特定しなければなりません。すぐに連絡役のミレーユに暗号封書を送り、灰冠局の残党と帝国の接触記録を洗わせます。……ですが、この街に潜伏している帝国の連絡網も、放置はできません」
「それは、ノアが動いている」
グレンは窓の外、暗い夜の街へと視線を向けた。
*
同じ頃。
ラステルの裏路地にある、荒くれ者や情報屋が集まる薄汚れた酒場。
喧騒と紫煙に満ちたその空間に、スリの少年ノアは自然に溶け込んでいた。
(……店主さんの言った通りだ。『盗む』んじゃなくて、『入れる』んだ)
ノアは酒場の一角で、酔っ払った噂屋の男たちが集まるテーブルの脇を通り抜けた。
その瞬間、彼は神業のような手つきで、一人の男のポケットに『一枚の紙片』を滑り込ませた。
紙片には、暗号めいた記号と共に「雑貨屋の親父が、帝国の作戦図を手に入れた。明日の夜、商人組合に持ち込むらしい」という短い文章が記されている。
さらにノアは、別の情報屋がすれ違う瞬間、わざとぶつかるようにして身を屈め、相手の耳元で微かな声で囁いた。
「……雑貨屋の裏に、帝国の帳簿が隠してあるってよ」
声の主を確認させる間も与えず、ノアは人混みへと姿を消す。
相手の懐から盗み出すのではなく、相手の懐に偽の情報を『スリ入れる』。
そして、不特定多数ではなく、明確に「帝国の耳に入れたい相手」を選んで情報を『囁く』。
それは、グレンから「見る力」を学んだノアが、スリの技術を情報戦へと応用させた結果だった。
偽の情報を流された噂屋たちは、それが金になる情報だと信じ込み、すぐに街のあちこちへと散っていった。
これで、街に潜む帝国の連絡役は、必ずその情報を耳にするはずだ。
「よしっ。……あとは、店主さんに任せるだけだ」
ノアは酒場の裏口から抜け出し、冷たい夜気を吸い込んでニヤリと笑った。
*
深夜の南通り。
《からすの止まり木》の裏口に通じる、人通りのない狭い路地。
ノアの流した偽情報に釣られ、一つの影が音もなく路地へと侵入してきた。
表向きは街で香辛料を扱う商人として潜伏している、帝国諜報部《銀狼機関》の連絡役だ。
彼は「雑貨屋が手に入れた帝国の作戦図」を回収、あるいは破棄するために、危険を承知で裏口へと近づいてきた。
「……ネズミが一匹」
だが、裏口の扉に手をかけようとした瞬間。
頭上から、静かで冷酷な声が降ってきた。
「なっ!?」
連絡役の男が咄嗟に上を見上げる。
建物の庇の陰から、エプロン姿のグレンが音もなく飛び降りてきた。
「罠か……ッ!」
男は瞬時に状況を悟り、懐から短い杖を抜き放った。
帝国魔術師特有の、詠唱を短縮するための魔導具だ。
「炎よ、穿て――」
男が短い詠唱を紡ぎ、杖の先端に赤熱する魔力を集中させようとした、その時。
チリンッ。
男の足元で、澄んだ『鈴』の音が鳴った。
グレンが着地と同時に、床に向かって放り投げた真鍮製の小さな鈴だ。
「あ……?」
極度の緊張状態にあった男の意識が、その不自然で甲高い音によって、ほんの一瞬だけ足元へと逸らされた。
視線と魔力集中の条件が崩れる。
その決定的な隙を、グレンが見逃すはずがなかった。
「……よそ見をするな」
グレンの手から、中身の詰まった『香辛料の小袋』が放たれた。
袋は男の顔面スレスレで、グレンが事前に仕込んでいた緩い縫い目から弾け飛ぶ。
バフゥッ!
「ぎゃあっ!?」
目と鼻の粘膜に、極度に刺激の強い香辛料の粉末が直接叩きつけられた。
強烈な痛みと咳の連鎖によって、男の魔力は完全に霧散し、杖が手から滑り落ちる。
グレンは咳き込んでうずくまる男の背後へ回り込み、手にしていた丈夫な『革紐』を男の首と両腕に素早く巻き付けた。
「がはっ、げほっ……!」
革紐を背中で強く引き絞られ、男は完全に身動きが取れなくなった。
魔法を発動する暇も、抵抗する暇も与えない、完璧な制圧だった。
「……香辛料の扱い方が、なっていないな」
グレンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしている男を見下ろし、極めて平坦な声で告げた。
偽情報に踊らされ、自ら死地へと飛び込んできた帝国の連絡役は、ただの雑貨屋の道具の前に無様にひれ伏していた。
*
数分後。
駆けつけたイリスによって連絡役の男が拘束され、衛兵の詰所へと引き渡された。
「グレンさん。この男が使っていた香辛料の荷車を、近くの路地で見つけました」
イリスが、押収した荷車を《からすの止まり木》の裏手へと引いてくる。
荷車には、表向きの商品である胡椒やクミンの袋が積まれていた。
「……偽装用の荷物か。だが、底が浅いな」
グレンは荷車の荷台を半分閉じた目で観察し、積まれていた香辛料の袋を無造作に退けた。
荷台の底板には、巧妙な隠し扉が作られていた。
グレンが短刃の先で底板を跳ね上げると、中から独特の青臭い匂いが漂ってきた。
そこには、四角く固められた大量の『お香』が隠されていたのだ。
「これは……人間用のお香ではありませんね」
イリスが顔を近づけ、その匂いを確認して眉をひそめる。
「ああ。……『鎮静香』だ」
グレンは一つのお香を手に取り、親指で表面を軽く削った。
「それも、ただの鎮静香じゃない。興奮状態にある『軍馬』を強制的に眠らせるほど強力な、特殊な香だ」
その言葉に、イリスの顔色が変わる。
水、食料とインフラを攻撃してきた銀狼機関。
彼らが次に見据えている標的。それは、街の物流と通信の要であり、有事の際の機動力となる『馬』だったのだ。
「……帝国の犬どもは、街の足を奪う気か」
グレンは手の中の鎮静香を握りつぶし、静かに、だが確かな怒りを込めて夜空を見上げた。
都市を殺すための次なる一手が、すでにこの街に放たれようとしていた。




