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辺境雑貨屋のおっさん、実は王都最恐の元処刑人でした 〜店の子を泣かせた悪党は、魔法を唱える前に日用品で後始末します〜  作者: 他力本願寺


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第37話 パン窯を狙うな

辺境都市ラステルの朝は、パンの焼ける香ばしい匂いから始まる。

南通りにある《からすの止まり木》の店番少女リナにとって、それは平和な日常を告げる一番の合図だった。


だが、今朝の南通りには、その匂いが漂ってこない。


「……おかしいな。マルタお婆ちゃんのパン屋、今日はお休みですかね?」


店先を掃除しながら、リナが不安そうに首を傾げる。

いつもなら、夜明け前から窯に火が入り、通りには温かい空気が満ちているはずだった。


「……様子を見てくる」


カウンターで釘の数を数えていたグレンが、静かに立ち上がった。

リナも箒を置き、小走りで彼の後を追う。


二人がマルタ婆さんのパン屋に到着すると、店の前には「本日はパンが焼けません」という拙い字の貼り紙が出されていた。

裏口から声をかけると、マルタ婆さんが煤けた顔で出てきた。


「なんだい、グレンにリナじゃないか。ごめんよ、今日はパンはないんだ」

「お婆ちゃん、どうしたの? 窯が壊れたの?」

「いやね、薪が手に入らないんだよ」


マルタ婆さんは深いため息をついた。


「いつもの薪屋が、どこも品切れでね。市場の木材がごっそり買い占められてるって噂さ。……でも、昨日の夕方に親切な行商人が来て、少しだけ薪を譲ってくれたんだ。今、やっと窯に火を入れたところだよ」


婆さんの言葉に、グレンは半分閉じた目をわずかに開いた。


買い占めによる市場の枯渇。

そして、その直後に現れた「親切な行商人」。

それは、都市のインフラを数字で削り殺す帝国諜報部《銀狼機関》の、極めて典型的な工作の手口だった。


「……婆さん、窯を見せてくれ」


グレンは返事も待たず、土間の奥にある大きな石窯へと足を踏み入れた。


窯の中では、先ほどくべられたばかりの薪が、チロチロと赤い炎を上げ始めていた。

グレンは無言のまま、窯の前にしゃがみ込む。


(……乾燥が甘い。いや、違う)


グレンの鋭い五感が、瞬時に違和感を捉えた。

燃えている薪の表面。樹皮の模様から、それがパンを焼くのに適した広葉樹ではなく、油分を多く含んで爆ぜやすい『針葉樹』の生木であることが分かった。

さらに、薪の内部からシューッという、樹液が沸騰するのとは違う不自然な音が聞こえる。


「……離れろ!」


グレンが鋭く叫び、マルタ婆さんの腕を掴んで強引に後方へと引き倒した。


ドォンッ!!


直後、窯の中で凄まじい破裂音が響いた。

爆発した薪の破片と大量の火の粉が、窯の口から散弾のように吹き出し、土間の壁や天井に激突する。


「ひゃあっ!」


リナが悲鳴を上げてしゃがみ込む。

土埃と煙が収まった後、そこには無残にひび割れ、内部が崩落したパン窯の姿があった。

グレンが間一髪で引き倒していなければ、マルタ婆さんは顔面に熱風と木っ端を浴びて致命傷を負っていただろう。


「お、お婆ちゃん! 大丈夫!?」

「あ、ああ……腰を打ったが、なんともないよ……」


リナが涙目でマルタ婆さんにすがりつく。

その小さな背中が、恐怖で小刻みに震えていた。


グレンは無言で立ち上がり、床に転がった薪の破片を拾い上げた。


内部がくり抜かれ、そこに可燃性の油と、魔法の火球に使われる粗悪な『触媒』が詰め込まれている。

火を入れれば確実に爆発し、窯を完全に破壊する仕掛けだ。


帝国は、薪を買い占めてパンを作らせなくするだけでは満足しなかった。

街の日常の象徴であるパン屋そのものを物理的に破壊し、人々の心を根本からへし折ろうとしたのだ。


「……あの子を、泣かせかけたな」


グレンの手の中で、木片がメキリと音を立てて砕けた。

彼の背中から、静かで、底冷えのするような殺気が立ち上る。


「リナ。婆さんをセラのところへ連れて行け。念のため怪我を診てもらえ」

「て、店主さん……?」

「……俺は少し、薪を拾ってくる」


グレンはそれだけ言い残し、足早に店を出た。



ラステル郊外の、放置された廃倉庫。


薄暗い倉庫の中には、市場から不当に買い占められた大量の薪が、天井に届くほど山積みにされていた。

その手前で、数人の黒い外套を着た男たちが、テーブルを囲んで酒を飲んでいる。


「今頃、あのババアのパン窯は派手に吹き飛んでるだろうな」

「ははっ、いい気味だ。これで南通りの連中は、明日の朝から冷たくて固い干し肉を齧るしかなくなる」


都市を飢えさせ、絶望させる。

その成果を酒の肴に、工作員たちは下劣な笑い声を上げていた。


「おい、火を貸してくれ」


一人の男が葉巻を咥え、仲間に声をかけた。


「……これを使え」


突然、倉庫の重い鉄扉の隙間から、何かが床を滑るようにして投げ込まれた。


「ん?」


男たちが視線を向ける。

床に転がっていたのは、彼ら自身がマルタ婆さんに売りつけた『細工済みの薪』の余りだった。

導火線代わりに巻かれた油布に、すでに火が点けられている。


「なっ……! 伏せろッ!」


ドッガァァァン!!


狭い倉庫内で起きた爆発が、密閉された空間の圧力を一気に高め、頑丈な鉄扉を外側へと吹き飛ばした。

爆風と煙が渦巻く中、外の光を背にして、エプロン姿の男が静かに足を踏み入れてくる。


「ゲホッ……! な、何者だてめえは!」


工作員の一人が、咳き込みながら剣を抜いた。


「……パン屋のツケを払いに来た」


グレンは極めて平坦な声で告げると、足元に転がっていた『普通の薪』を一本拾い上げた。

長さ五十センチほどの、硬いオーク材の薪。


男が怒号と共に剣を振り下ろしてくる。

グレンは半歩横へずれ、手にした薪の木口を、男の剣を持つ手の手首の関節に的確に叩き込んだ。


ゴキッ!


「ぎゃあっ!」


剣を取り落とした男の顎を、さらに薪の腹で下から跳ね上げる。

脳を揺らされた男が、白目を剥いて崩れ落ちた。


「この野郎ッ!」


残る三人の男が一斉に飛びかかってくる。

グレンは後退しながら、彼らが背にしていた『巨大な薪の山』の支柱となっている木枠に視線を向けた。


「……崩れるぞ」


グレンは手にした薪を、その支柱の根本に向けて全力で投げつけた。


ドゴォッ!


強烈な一撃が支柱をへし折る。

バランスを崩した数百本の薪の山が、雪崩を打って工作員たちの頭上に降り注いだ。


「うおわぁぁっ!」

「ぐあッ、重い……!」


硬く重い薪の下敷きになり、男たちは完全に身動きが取れなくなった。

剣も魔法も使わず、ただの木切れと環境を利用した完全な制圧。


グレンは薪の山の下でうめく男たちを見下ろした。

これだけの薪があれば、当分の間、街のパン屋が休業することはない。食糧不安の火種は、これで一つ消えた。


「……衛兵に突き出す。大人しくしていろ」


グレンが踵を返そうとした、その時。


「……帝国、万歳……!」


下敷きになっていた工作員のリーダー格が、口の中に仕込んでいた自決用の毒カプセルを噛み割ろうとした。


捕虜になれば情報が漏れる。それを防ぐための工作員の基本行動だ。

だが、グレンの反射速度はそれを上回っていた。


グレンは即座に男の首根っこを掴んで引き上げ、顎の関節を力任せに外した。


「がはっ……!?」


口が開いたまま固定され、男は噛み割る直前のカプセルを床に吐き出した。


「……死んで逃げるのは、許さない」


グレンは冷たい目で見下ろし、床に転がったカプセルを拾い上げた。

その小さなカプセルを鼻に近づけ、微かな匂いを嗅ぐ。


「……」


グレンの眠そうな目が、わずかに見開かれた。

セラの薬屋で嗅いだ帝国の毒とは違う。

この独特の甘い匂い。それは、かつてグレン自身が王都暗部《灰冠局》に所属していた頃、組織が口封じのために処刑人に支給していた『王国製の毒』だった。


なぜ、帝国の工作員が、王国の暗部が使う毒を持っているのか。


「……根は、繋がっているというわけか」


王都の腐敗と、帝国の侵略。

二つの巨大な悪意は、別々のものではなく、一つの太い管で繋がっていたのだ。


グレンはカプセルを握りしめ、冷たい風が吹き込む倉庫の入り口から、灰色の空を静かに見上げた。

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