第35話 人質を取る犬
ラステルの街外れに位置する、廃れた倉庫街。
冷たい夜霧が立ち込める中、一つの影が建物の屋根を音もなく這い進んでいた。
かつてスリとして裏路地を這いずり回っていた少年、ノアだ。
彼は極限まで呼吸を殺し、古いレンガ造りの第三倉庫の天窓から、そっと内部の様子を窺った。
(……いた。三人だ)
薄暗いランプの明かりの下、黒い外套を着た男たちが立っている。
そして部屋の隅には、古びた木箱に縛り付けられ、猿轡を噛まされて震えている小さな少女の姿があった。
水源に毒を流すよう脅されていた水売りの男、ボウマンの娘だ。
ノアは少女の無事と、敵の配置、武装を瞬時に脳裏に焼き付け、足音一つ立てずに屋根を降りた。
「……店主さん」
倉庫の死角となる路地裏。
闇に溶け込むように立っていたグレンに、ノアは声を潜めて報告する。
「第三倉庫だ。見張りは外に二人、中に三人。女の子は奥で縛られてる。……中の三人のうち、一人は腰に短い杖を差してた。魔法使いだと思う」
「……外の二人の動きは」
「一定の距離を歩いて、必ず十五歩で振り返る。訓練されてる動きだ」
グレンは半分閉じた目で、短く頷いた。
「……上出来だ。お前はここで待機しろ。中には入るな」
グレンはノアの頭に軽く手を置いた。
ノアに教えているのは、生き延びるための目と足だ。これから始まる『処刑』の現場を見せるつもりはなかった。
グレンが音もなく闇へと歩み去る。
ノアは言われた通りその場に留まり、ただ強く拳を握りしめていた。
*
第三倉庫の中では、黒外套の男たちが無感情な声で言葉を交わしていた。
「……そろそろ、大井戸の毒が回り始める頃合いか」
「ああ。明日には都市機能の二割が低下する。水と薬草の供給を断てば、この街の連中は一週間と保たない」
彼らは街の人間を、ただの数字としてしか見ていない。
縛られている少女が、恐怖で涙をこぼしながら震え声を上げた。
「……泣く暇があるなら、お前の父親が上手くやることを祈るんだな」
リーダー格の男が、少女を見下ろして冷酷に言い放つ。
「俺たちは帝国の『犬』だ。感情はない。国のため、作戦のためなら、お前のような子どもを使うことになんの躊躇いもない」
男の言葉には一切の熱がなく、純粋な任務遂行の意志だけが存在していた。
「お前の父親がしくじれば、お前はただの肉の塊になる。それだけのことだ」
少女が絶望に目を閉じた、その瞬間。
ドォンッ!
倉庫の重い鉄扉が、わずかな隙間を開けて不自然に軋んだ。
男たちが一斉に警戒し、武器に手をかける。
「外の見張りはどうした!?」
「返事がありません!」
扉の隙間から、何かが床を滑るようにして投げ込まれた。
それは、倉庫の外に積まれていた暖炉用の燃料――極限まで乾燥した『石炭粉』がパンパンに詰まった麻袋だった。
「なんだ、これは……?」
男の一人が訝しげに近づいた直後。
闇の中から音もなく飛来した分銅が、その麻袋に激突して破裂させた。
バフゥゥッ!!
「なっ!?」
破裂した麻袋から、真っ黒な石炭の粉塵が爆発的に舞い上がった。
ランプの光が遮られ、倉庫内は一瞬にして完全な暗闇と息苦しい粉の海に包まれる。
「ゲホッ! ゴホッ! 目が……!」
粘膜に張り付く微細な石炭粉により、男たちは視界を完全に奪われ、激しく咳き込んだ。
その粉塵の幕を突き破るように、グレンが音もなく倉庫内へと侵入していた。
「風の――ッ!」
杖を持っていた魔法使いの男が、粉塵を吹き飛ばそうと咄嗟に詠唱を始めようとする。
魔法は発動すれば厄介だ。
だが、グレンは男が言葉を紡ぐより早く、その背後へと回り込んでいた。
グレンの手には、商品の保管に使われる丈夫な『麻袋』が握られている。
彼はそれを、魔法使いの頭からすっぽりと被せた。
「むぐっ!?」
そのまま麻袋の口を首元で強く引き絞り、声帯の震えを完全に封じ込める。
詠唱を絶たれた魔法使いは、麻袋の中で呼吸もできず、数秒で白目を剥いて床に崩れ落ちた。
「くそっ、どこだ! どこにいやがる!」
剣を抜いた二番目の男が、盲滅法に刃を振り回す。
グレンは飛来する剣の軌道を半歩で見切り、エプロンの下から『木箱の釘抜き』を取り出した。
鋼鉄製の短い釘抜き。
グレンはその二股に分かれた先端を、男が振り下ろした剣の鍔元に正確に引っかけた。
ガキッ!
「あ……?」
そのまま釘抜きを支点にして、テコの原理で男の手首の関節を強烈に捻り上げる。
「ぎゃあっ!」
手首の骨が悲鳴を上げ、男はたまらず剣を取り落とした。
グレンはそのまま釘抜きの柄の部分を反転させ、男の顎先を的確に打ち抜く。
脳を揺らされた男は、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
「て、てめえ……っ!」
最後の一人、リーダー格の男が、涙と粉塵で顔を真っ黒にしながらグレンに向かって短剣を突き出してきた。
グレンはそれを受け流すことすらせず、男の踏み込みに合わせて半歩前へ出る。
そして、無造作に放った掌底が、男の鳩尾に深くめり込んだ。
「が、はっ……」
呼吸を完全に断ち切られ、リーダー格の男が膝から崩れ落ちる。
「……犬なら、大人しく這いつくばっていろ」
グレンは倒れた男を見下ろし、極めて冷坦な声で告げた。
粉塵が晴れゆく中、三人の帝国工作員は、ただの雑貨屋の道具と環境利用の前に、為す術もなく床に転がっていた。
「……終わったぞ、ノア」
グレンの呼びかけに、外で待機していたノアが駆け込んでくる。
ノアは倒れた男たちを見て息を呑んだが、すぐに奥で縛られている少女の元へと走り、手早く縄を解いた。
「もう大丈夫だ。怪我はないか?」
「う、う、うわあああんっ!」
少女は縄を解かれるなり、ノアにしがみついて大声で泣きじゃくった。
ノアは少し戸惑いながらも、少女の背中を優しく撫でてやる。
グレンは半分閉じた目で、その光景を静かに見守っていた。
帝国の工作員たちが「数字」と「犬」を自称し、子どもを平気で使い潰そうとしたのに対し、この辺境の雑貨屋の周囲には、確かに人間としての温かい感情が残っている。
「……店主さん、こいつらどうする?」
「……縛っておけ。後で衛兵に突き出す」
グレンが言い捨てて踵を返そうとした時、泣き止んだ少女が、震える声でぽつりと呟いた。
「あの……おじちゃんたち……」
「ん? どうした?」
ノアが首を傾げる。
少女は、気絶している黒外套の男たちを怯えた目で見つめながら言った。
「この人たち、自分たちのこと……『銀狼』って、呼ばれてました」
その言葉に、グレンの足がピタリと止まる。
銀狼。
ガルディア帝国諜報部《銀狼機関》。
正面から軍を動かさず、都市を内部から腐敗させ、水や食料を絶って破壊する、帝国の最も悪辣な工作部隊の名前。
グレンは無言のまま、静かに振り返った。
彼らが大井戸に流した毒。そして、少女を人質にとった手口。
それは単なる小悪党の犯罪ではなく、国家を挙げた明確な『戦争』の始まりを意味していた。
辺境の街ラステルは今、帝国の冷徹な牙に完全に狙いを定められていた。




