第34話 水源に毒
辺境都市ラステルに、見えない死の影が静かに忍び寄っていた。
王都暗部・灰冠局の脅威が去り、街が自分たちの手に戻ったと安堵したのも束の間。南通りの空気は、朝から異様なほど重く沈み込んでいた。
「店主さん、今日はなんだか通りに人が少ないですね……」
《からすの止まり木》のカウンターで、リナが不安そうに外を覗き込んでいる。
普段ならマルタ婆さんのパン屋に並ぶ人たちの声が聞こえるはずだが、今日はひどく静かだ。
グレンは半分閉じた目で、通りを行き交う数少ない街人たちの様子を観察していた。
誰もが顔色が悪く、ふらつくような足取りで歩いている。腹を押さえてうずくまる者さえいた。
「……セラの様子を見てくる」
グレンは短い言葉を残し、エプロン姿のまま店を出た。
セラの薬屋は、すでに野戦病院のような有様になっていた。
店先の地べたにまで、腹痛や吐き気を訴える住民たちが座り込んでいる。セラは額に汗を浮かべながら、一人ひとりに解毒の薬草湯を配って回っていた。
「セラ」
「グレンさん……」
セラはグレンの姿を認めると、少しだけ安堵の表情を見せたが、すぐに深刻な顔つきに戻った。
「急患が相次いでいます。最初は食あたりかと思ったのですが、症状が酷すぎます。共通しているのは、今朝、街の東にある『大井戸』の水を飲んだということだけです」
街の東の大井戸は、水源地から直接水を引き込んでいる、ラステルでも最大級の給水施設だ。
セラは、患者の一人が持っていた水筒の残りを小皿に開け、そこに特定の薬草の粉末を振り入れた。
水は一瞬で、どす黒い紫色に変色した。
「……これは、自然発生した毒ではありません」
セラの声が微かに震える。
「帝国軍の工作部隊が、敵地の水源を枯らすために使う『遅効性の毒』に酷似しています。一度に致死量には達しませんが、数日かけて確実に内臓を破壊し、都市の機能を麻痺させるものです」
帝国。
先日、王都から来た監察官イリスが残した「帝国銀貨流入の調査」という言葉が、グレンの脳裏をよぎった。
都市を正面から攻め落とすのではなく、水、食糧、治安、薬といったインフラを一つずつ数字で削り殺していく。それが、ガルディア帝国諜報部《銀狼機関》のやり方だ。
「……解毒はできるか」
「はい。この程度なら、私の調合で中和できます。ですが、水源そのものをどうにかしないと……」
グレンは短く頷き、すぐに東の大井戸へと向かった。
*
大井戸の周辺は、すでに衛兵隊によって封鎖されていた。
だが、現在の衛兵隊は人員が不足しており、警備には隙が多い。グレンは人目を避け、音もなく井戸の真裏へと回り込んだ。
そこで、グレンは井戸の周囲を念入りに観察した。
毒の空き瓶や、怪しい足跡などの分かりやすい証拠は一切残されていない。プロの工作員による犯行なら、痕跡を消すのは当然だ。
だが、グレンの目は「犯罪の痕跡」ではなく、「日常の道具の違和感」を探していた。
彼は、井戸の水を汲み上げるための太い『井戸縄』と、それを支える『滑車』に視線を固定した。
(……縄の湿り方が不自然だ)
井戸縄は、水を汲み上げるたびに全体が濡れる。だが、現在巻き上げられている縄は、中腹の十メートルほどだけが極端に湿っており、その下の部分は妙に乾いていた。
これは、毒の入った重い袋を縄の中腹に結びつけ、水面スレスレで長時間吊るしていた証拠だ。徐々に毒を溶かし出すための細工。
さらに、滑車の金具の接合部。
そこに、赤茶色の新しい『錆』が浮いているのを見つけた。
セラの言う帝国の毒は、強い酸性を含んでいる。それが滑車の金属と反応し、一夜にして不自然な錆を生じさせたのだ。
縄の乾き具合と錆の進行度。
雑貨屋として日々道具の劣化を見極めているグレンには、毒が投入された正確な時間帯が手にとるように分かった。
(……昨夜の深夜二時から、明け方の四時の間)
その時間帯、大井戸には必ず『夜番』の人間が配置されているはずだ。
グレンは井戸の裏から姿を消し、水売りや薬草商がたむろする広場の裏手へと向かった。
街の情報の流れは、常にこうした場所に集まる。
「昨日の大井戸の夜番? ああ、ボウマンのおっさんだよ。今朝交代したばかりだけど、なんだかひどく顔色が悪くて、手がブルブル震えてたな」
水売りの男から得た情報を元に、グレンはボウマンの住む貧民街の長屋へと足を運んだ。
長屋の扉は半開きになっており、中から荷物をまとめるような物音が聞こえてくる。
グレンが音もなく扉を開けると、初老の男――ボウマンが、ボロボロの革鞄に荷物を詰め込んでいる最中だった。
彼の手の甲には、酸性の毒に触れたことによる赤いただれがはっきりと残っている。
「……どこへ行くつもりだ」
背後からの静かな声に、ボウマンは「ひぃっ!」と悲鳴を上げて振り返った。
グレンの姿を見るなり、彼は荷物を放り出して窓から逃げ出そうとした。
だが、グレンの動きの方が圧倒的に早い。
グレンは手にしていた『井戸縄の切れ端』を無造作に投げ放った。
先端に結ばれた小さな分銅が、窓枠の木材に巻き付いて固定される。張られた縄が、逃げようとしたボウマンの足首を的確に絡め取った。
「うおっ!?」
ボウマンが顔から床に突っ込む。
グレンは歩み寄り、ピンと張った縄を踏みつけて男の動きを完全に封じた。
「あ、が……っ」
「……お前の手についた火傷。帝国製の毒を扱った痕だな」
グレンのひどく冷たい声が、ボウマンの頭上から降り注ぐ。
言い逃れができないと悟ったボウマンは、震える手で頭を抱え、床にすがりつくようにして泣き叫んだ。
「ち、違う! 俺はやりたくなかった! この街の人たちに毒を飲ませるなんて、そんなこと……!」
「なら、なぜやった」
グレンは殺気を放つことなく、ただ事実のみを要求する。
ボウマンは涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、その背後にある巨大な絶望を吐き出した。
「お、脅されていたんだ! 言う通りにしないと……俺の娘を殺すって!」
男の悲痛な叫びが、薄暗い長屋に響き渡る。
「数日前、黒い服を着た銀髪の男がやってきた。奴は、俺の娘を人質に取りやがったんだ……! 逆らえば娘の命はないと、あの毒を渡されて……っ」
人を憎まず、都市を数字で見る男。
帝国諜報部《銀狼機関》指揮官、カイゼル・ロート。
彼の冷酷な破壊工作は、すでに辺境の街の最も弱い部分に深く突き刺さっていた。
「……娘は、どこにいる」
グレンの静かな問いかけに、ボウマンは震えながら首を振った。
「分からない……! ただ、明日の夜、廃教会の裏で次の指示を出すと言っていた……!」
都市の命脈を握るインフラへの攻撃と、抗うことのできない人質。
カイゼルの理性的で無慈悲な罠が、ラステルの街を完全に包み込もうとしていた。
グレンは足元の縄を解き、恐怖に震える父親を静かに見下ろした。
街全体を標的にした帝国との暗闘が、今、幕を開けた。




