第33話 監察官は残る理由を得る
王都暗部《灰冠局》の襲撃から数日が経過した朝。
辺境都市ラステルの南通りにある雑貨屋《からすの止まり木》は、かつてないほどの騒がしさに包まれていた。
「ほらほら、木材はこっちに積んでおきな! 釘が足りないなら、うちの裏にあるやつを持ってくるよ!」
パン屋のマルタ婆さんが、大声で指示を出している。
彼女の周りには、商人組合の男たちや、南通りに住む職人、退役兵たちが集まり、ノコギリや金槌を手に忙しく立ち働いていた。
先日の襲撃により、店の地下室にあった巨大な在庫棚は崩落し、一階の店舗部分も床板が剥がれ、いくつかの商品棚が真っ二つに折れるなどの被害を受けていた。
普段であれば、グレンが一人で数日かけて黙々と直すところだ。
だが、今朝は違った。店を開ける前から、どこからともなく街の人々が修繕の道具を持って集まってきたのだ。
「店主さん、ここの床板は俺たちが張り替えておくからよ。少し休んでてくれ」
「棚の寸法は前と同じでいいかい? 丈夫なオーク材を持ってきたから、少々のことじゃ壊れねえよ」
職人たちが笑いながら、グレンに声をかける。
かつてのラステルは、腐敗した衛兵隊や悪徳貴族、そして王都の暗部に怯え、誰もが息を潜めて生きる灰色の街だった。権力者が何かを壊しても、平民は見て見ぬふりをするしかなかった。
だが、彼らを苦しめていた重圧は、今や完全に排除された。
街の人々はもう、見えない恐怖に怯えていない。
自分たちの生活を、自分たちの街を、自分たちの手で守り、直していく。彼らの顔には、取り戻した自由への活気と、確かな誇りが満ちていた。
「……」
感謝されるのが極端に苦手なグレンは、次々と運び込まれる木材と、笑顔で働く街人たちを前にして、ひどく居心地が悪そうに頭を掻いた。
「……適当に頼む」
グレンが短くそう言って奥へ引っ込もうとすると、マルタ婆さんが笑い声を上げた。
本当に、不器用で、誰よりも優しい処刑人だ。
店の裏口では、ノアが職人から金槌を借りて、真新しい分厚い板を打ち付けていた。
「よしっ、これで簡単には破られねえぞ!」
かつて赤鼠商会に使われ、生きるために他人の財布を盗むしかなかったスリの少年の手は、今、自分たちの居場所を強く守るために動いている。
カウンターの隅では、リナが真新しい売上帳を開いていた。
古い売上帳は乱闘の際に破れてしまったが、彼女の表情に暗さはない。
「店主さん、修理代は組合の方たちが好意で負担してくれるそうですけど、お茶代くらいはうちから出しますからね。ちゃんと計算しておきます!」
彼女のペン先が、楽しげに白い紙の上を走る。
そして、店の片隅には薬師のセラが仮設の治療スペースを設けていた。
「ほら、無理をするから擦りむくんです。この軟膏を塗っておきますから、少し休んでくださいね」
「すまねえ、セラさん。つい張り切っちまって」
木材を運んで軽い怪我をした男たちに、セラは手際よく薬を塗り、温かい薬草茶を振る舞っている。
彼女もまた、亡き夫の呪縛から解放され、前を向いて歩き始めていた。
温かく、騒がしい日常の風景。
グレンは半分閉じた目でそれを見つめながら、静かに息を吐いた。
「……良い街になりましたね」
グレンの背後から、凛とした声がかけられた。
王都監察官のイリスだ。
彼女は手にした数枚の書類をまとめながら、グレンの隣に並び立った。
「……王都へは、帰らないのか」
グレンが視線を向けずに問うと、イリスは小さく首を振った。
「ええ。先ほど、王都の監察局から正式な返書が届きました。私はこのラステルに、暫定的な監察拠点を置くことになります」
イリスは書類の一枚をグレンに提示した。
「灰冠局の解体調査が始まりました。ですが、オルド局長が辺境で行っていた非合法活動の全容を解明するためには、この街に残された記録と証拠の保全が不可欠です。さらに、ヴェイン男爵が流していた『帝国銀貨』の正確な流通経路の特定。これらを完了させるまで、私は法の代行者としてこの街に残ります」
それは、個人的な感情や、単なるグレンへの監視を目的としたものではない。
王都の役人として、辺境の危機を物理的に処理するための『実務的な根拠』だった。
「……王都の中枢は、どうする」
グレンの問いは的を射ていた。
オルドの残した記録から、王都の内部にも帝国と内通している協力者がいる可能性が高いことが判明している。辺境にいては、王都の腐敗を暴くことはできない。
「それについては、手を打ってあります」
イリスは力強く答えた。
「文書局にいる私の同期、ミレーユを王都側の連絡役に指名しました。彼女は表向きは臆病で目立ちませんが、記録改竄の痕跡を見抜く能力は誰よりも高い。彼女が王都内部を調べ、早馬と暗号封書を使って私に情報を送ります」
イリスは王都の腐敗に単身で乗り込むのではなく、外側から、確実な証拠を集めて追い詰める道を選んだのだ。
「私たちは外から。彼女は内から。必ず、国家を売る内通者を炙り出してみせます」
「……」
法の無力さを知ったイリスは、それでも法を捨てなかった。
彼女は彼女のやり方で、正義を貫く覚悟を決めたのだ。
「……好きにしろ。ただし、店の邪魔はするなよ」
「ええ、分かっています。私はあくまで、客としてこの店を利用させてもらうだけですから」
イリスは小さく微笑み、修理が進む店内へと視線を戻した。
悪党は処理され、街は自分たちの手に戻った。
これでようやく、平穏な日常が続く。誰もがそう信じていた。
*
だが。
国家を巻き込む真の脅威は、足音もなく、すでにこの辺境の街の喉元まで迫っていた。
ラステルの街から少し離れた、北の森。
この街の生活用水のすべてを賄う、澄み切った巨大な水源地。
「おい……なんだ、ありゃ……」
定期的な見回りに訪れていた水質管理組合の男が、貯水池の水面を見て顔を青ざめさせた。
静かな水面。
そこに、数え切れないほどの『魚』が、真っ白な腹を見せて大量に浮かんでいたのだ。
「嘘だろ……水源が、死んでる……!?」
水面に不自然な白い泡が浮き、ツンとした化学薬品のような刺激臭が鼻を突く。
それは自然発生した病気などではない。
明確な悪意を持って、意図的に水源に強力な毒が流し込まれた証拠だった。
剣も魔法も使わず、ただ都市の機能そのものを『数字』として削り殺す。
ガルディア帝国諜報部《銀狼機関》による、無慈悲な都市破壊工作が、音もなく静かに幕を開けていた。




