第32話 黒縄を断つ
《からすの止まり木》の薄暗い地下室。
倒壊した在庫棚の下で灰冠局の刺客たちが呻き声を上げる中、王都暗部《灰冠局》の局長オルド・ケインは、奥の棚から見つけ出した古びた『黒い縄』を愛おしそうに撫でていた。
「素晴らしい……これだ、グレン。これがお前を王国最強の執行人たらしめていた象徴だ」
オルドの目は、狂気じみた光を放っていた。
彼は黒縄を手に、ゆっくりとグレンに向かって歩み寄る。
「戻ってこい、グレン。辺境でのくだらない雑貨屋ごっこはもう終わりだ。お前は私の手足となり、王国の影として生きるために生まれてきた男だ。この縄を再び手に取り、私のために無用な命を刈り取れ」
オルドの甘く、そして絶対的な命令を含んだ声。
だが、グレンは半分閉じた目のまま、目の前に差し出された黒縄を一瞥し、極めて平坦な声で答えた。
「……断る」
「なぜだ!」
オルドの顔から、丁寧な老紳士の仮面が剥がれ落ちた。
「お前は人殺しだ! その血に塗れた手で、何を今更守ろうというのだ!?」
オルドは激昂し、地下室の入り口――階段の上で不安そうに様子を窺っていたリナへと、鋭い視線を向けた。
「お嬢さん。君は、自分が誰に庇護されているか分かっているのか?」
「え……?」
リナが肩をビクッと震わせる。オルドは口元を歪め、残酷な事実を叩きつけた。
「この男はな、過去に数え切れないほどの人間をその縄で首を吊ってきた、正真正銘の化け物だ。その中には、何の罪もない無実の者や、政治の犠牲になった善良な者たちも数多く含まれていた。君のその店主は、命令一つで赤子すら殺せる冷血漢なのだよ」
過去の罪を暴露され、グレンは一切の反論をしなかった。
ただ無言で、伏し目がちに床を見つめている。それは、オルドの言葉が紛れもない真実であるからだ。
「さあ、どうだ! こんな恐ろしい殺人鬼の側に、まだ居たいと思うか!?」
オルドが勝利を確信して笑う。
だが、リナは震える足を必死に踏ん張り、階段を降りてグレンの背中のすぐ後ろまで歩み寄った。
「……私は、昔の店主さんが何をしたかは知りません」
リナの声は微かに震えていたが、その瞳は真っ直ぐにオルドを見据え、そしてグレンの背中から決して目を逸らさなかった。
「でも、今の店主さんは、私を助けてくれました。悪い人を怒鳴ったりしないけど、私たちが泣かされた時は、必ず守ってくれます。……だから私は、今の店主さんを信じます!」
その言葉に、グレンの肩がわずかに反応した。
オルドの顔が、屈辱と怒りで朱に染まる。
「愚かな……! ならば、その安い幻想ごと切り捨ててやる!」
オルドが手に持っていた杖を引き抜くと、中から鋭利な『仕込み刃』が現れた。
彼は老齢とは思えない素早い踏み込みで、グレンの首筋を狙って刃を突き出す。
だが、グレンの動きはそれよりもさらに速く、そして静かだった。
「……遅い」
グレンはオルドの突きを最小限の動きで躱すと、カウンターの下に常備していた自らの『短刃』を抜き放ち、オルドの持っていた仕込み杖を弾き飛ばした。
そのまま、オルドの腕を絡め取り、彼の喉元に冷たい刃をピタリと突きつける。
「くっ……!」
オルドの動きが完全に停止した。
刃をあと一ミリ押し込めば、局長の命はここで終わる。
「……殺せ」
オルドは喉元に刃を突きつけられながらも、狂ったように笑った。
「お前の本性はそれだ、グレン! 私を殺し、再び処刑人として目覚めろ! それでこそ私の最高傑作だ!」
オルドは死すら恐れていない。彼にとって、グレンが再び人を殺すことこそが最大の勝利なのだ。
グレンは短刃を握る手に力を込めた。
ここでこの男を殺せば、すべてが終わる。
だが。
グレンはゆっくりと、オルドの喉元から刃を引いた。
「……な、ぜだ……」
「……あんたをここで殺せば、俺はまた『誰かの都合』で命を奪うだけの、ただの道具に戻る」
グレンは短刃を降ろし、静かに、だが明確な決別を込めて告げた。
「俺はもう、過去には戻らない。……殺す価値すらない」
それは、グレンが過去そのものを相手に、最も明確に示した『処刑人からの脱却』だった。
悪党の命を奪うのではなく、生かしたまま最大の報いを受けさせるという、彼なりの選別。
「ふざけるな! 私を殺さず、王都にも送らず、このまま終わると思っているのか!」
「ええ、終わりますよ。オルド局長」
地下室の階段から、凛とした声が響いた。
王都監察官のイリスが、分厚い書類の束を抱えて降りてきたのだ。
彼女の背後には、街の商人組合と薬師組合の代表たちが数名、証人として付き従っていた。
「それは……」
「灰冠局の、非合法な処刑記録のすべてです」
イリスは書類を高く掲げ、オルドに向かって冷徹に宣告した。
「この越権行為と隠蔽の記録は、すでに複数枚の写しが作成され、街の記録所、商人組合、そして王都の複数の監査部署へと同時送付されました。もはや、あなたが握り潰せる規模ではありません」
「ば、馬鹿な……!」
オルドが顔面を蒼白にしてよろめいた。
彼の絶対的な権力は、暗部という「隠された組織」であるからこそ成立していた。
その記録が白日の下に晒された今、オルドはただの重罪人であり、灰冠局という機構そのものが完全に機能不全に陥ったのだ。
「隠してきた罪は、隠せない記録によって裁かれます。……あなたの権限は、ここで消滅しました」
イリスの言葉が、オルドへの完全な引導となった。
組合の者たちに両脇を固められ、へたり込むオルド。彼はもはや、薄汚れた一人の老人に過ぎなかった。
グレンはオルドが落とした『黒い縄』を拾い上げた。
彼は自らの短刃を使い、その縄の中央を無造作に、一刀の元に両断した。
「あ……」
「……半分は、俺の罪としてこの店の奥に置いておく」
グレンは切断された縄の半分を床に投げ捨て、残りの半分を静かに懐へと収めた。
「だが、処刑人はもう、ここにはいない」
彼が背負ってきた忌まわしい過去の象徴は、物理的にも精神的にも、ここで完全に断ち切られたのだった。
*
数日後。
ラステルの街は、灰冠局の解体とオルドの失脚という衝撃的なニュースに揺れながらも、確かな平穏を取り戻しつつあった。
イリスは滞在している宿の部屋で、王都へ提出するための最終的な報告書を書き上げていた。
これで、一つの大きな事件が終わる。
「……ん?」
彼女は報告書の末尾に添付する予定だった、灰冠局の押収資料の束を整理していた手を止めた。
一つの不自然な命令書。
そこには、オルドのサインと共に、見慣れない紋章の透かしが入っていた。
イリスは羊皮紙を蝋燭の光に透かして見る。
「これは……ガルディア帝国の、銀狼機関の紋章……?」
オルドが辺境の街を不自然なまでに監視し、毒薬の流通を黙認していた理由。
それは単なる権力欲ではなく、王都の中枢にいる彼自身が、帝国側の工作機関と深く内通し、王国の防衛網を内側から食い破ろうとしていた決定的な証拠だった。
(王都の暗部すら、すでに帝国に取り込まれていたというの……!?)
イリスの背筋に、氷のような悪寒が走る。
灰冠局という組織が潰れても、本当の敵はまだ、すぐそこまで迫っている。
辺境の小さな雑貨屋に平穏が訪れる日は、まだ少し先のことになりそうだった。




