第31話 店が処刑台になる夜
陽が落ち、深い夜の帳が辺境都市ラステルを覆い隠した。
南通りの《からすの止まり木》は、すでに店じまいを終え、表の雨戸も固く閉ざされている。
だが、店内の空気は異常なほどに張り詰めていた。
カウンターの奥に立つグレンの周囲には、店番のリナ、スリの少年ノア、薬師の未亡人セラ、そして王都監察官のイリスが集まっている。
「……来るぞ」
グレンが低く呟いた直後、カチリと入り口の鍵が外から外される音がした。
王都の暗部、灰冠局の刺客たち。彼らはこの店の構造や罠をある程度読み切った上で、明確な殺意を持って包囲網を敷いていた。
「リナ。孤児院の子どもたちを連れて、第二の裏口から北の路地へ抜けろ」
「はい、店主さん!」
リナは頷き、店の奥の居住スペースで震えている子どもたちの元へ走る。
彼女はかつて貴族家で虐待され、怯えることしかできなかった少女ではない。今はグレンの背中を見て、守られるだけではなく、誰かを守るために動けるようになっていた。
「ノア。屋根裏から外の様子を見て、敵の動きを俺に知らせろ。見つかるなよ」
「任せとけって! 音なんて絶対に出さねえから!」
ノアは素早く梁を登り、屋根裏の小さな通気口へと潜り込んでいった。
「セラは、奴らが使う毒の匂いを判別してくれ。万が一のために、解毒の準備も頼む」
「分かりました。私の薬草が、必ずあなたの助けになります」
セラは持参した薬箱を開き、いくつかの解毒用の薬草を素早く調合し始める。
「……私は?」
イリスが剣の柄に手をかけて問う。
「あんたは法の人間だ。戦うな。俺の部屋にある『灰冠局の越権記録』の写しを持って、確実に持ち出せ。……あれがなくなれば、街は完全に終わる」
「……分かりました。必ず、守り抜きます」
イリスはグレンの言葉に頷き、彼の私室へと向かった。
全員がそれぞれの役割を果たすため散っていく中、店の扉が音もなく開かれ、黒い外套に身を包んだ数人の男たちが滑り込んできた。
灰冠局の処刑人たち。
彼らはグレンの仕掛けた入り口の鈴を鳴らさず、軋む床板を正確に避けながら侵入してくる。
「……お出迎えご苦労。大人しく首を差し出せば、少しは楽に殺してやるぞ、老いぼれ」
先頭に立つ男が、暗闇の中で両手に鋭いナイフを構えた。
「……遅いな。手際が悪くなっているぞ」
グレンの挑発に、刺客たちは一斉に襲いかかってきた。
彼らはグレンの迎撃動線を読み、木箱の裏や商品の死角を的確に突いてくる。同業者だからこそ、グレンの思考をトレースし、罠を逆利用しようとするのだ。
「そこだッ!」
一人の男が、グレンが天井の梁に張っていた細い糸を掻いくぐり、死角から短剣を突き出してきた。
だが、その瞬間。
屋根裏から、ノアが床板を軽く二回、指で叩く音が響いた。
それは『右側から二人』という、事前に行っていた斥候の合図だ。
グレンは男の短剣を紙一重で躱すと、カウンターの下から取り出した『重い秤の皿』を、男の顔面に目掛けて振り抜いた。
ガキッ!
「がはっ……!」
鼻柱を砕かれ、男が床に崩れ落ちる。
さらに右側から回り込んでいた別の男が、毒針を吹き矢で放とうとした。
「グレンさん、甘い匂いです! 麻痺毒!」
セラの鋭い声が響く。
グレンは咄嗟に身を沈め、手元にあった『分厚い麻の荷袋』を盾にして毒針を防いだ。
そのまま低い姿勢から男の足元へと滑り込み、膝の関節に向けて容赦のない蹴りを叩き込む。
メキッ!
「ぎゃあああッ!」
膝を逆方向に折られ、男が絶叫して倒れ込む。
グレンは立ち止まることなく、次々と襲い来る刺客たちの急所を的確に潰していく。
しかし、敵の数は多く、連携は洗練されていた。
「チィッ……地下へ追い込め! そこなら逃げ場はない!」
刺客のリーダー格が叫び、数人の男たちがグレンを店の奥、地下室へと続く階段の方へ強引に押し込もうとする。
グレンは敢えてそれに乗り、後退しながら地下へと続く階段を駆け下りた。
「馬鹿め、自ら袋の鼠になり下がったか!」
リーダー格の男と、数人の刺客たちが勝利を確信して地下室へと雪崩れ込む。
薄暗い地下室は、大量の在庫が積まれた木箱と、天井まで届く巨大な棚で埋め尽くされていた。
「さあ、死ね!」
男たちが一斉に短剣を構え、グレンへと飛びかかった。
だが、グレンは逃げる素振りすら見せなかった。
彼は地下室の中央に立ち、片手に持っていた『古い革紐』を、ただ静かに強く引いた。
その瞬間。
メキメキメキッ!!
凄まじい音と共に、刺客たちの頭上にあった巨大な在庫棚が、根元からへし折れて前方に倒れ込んできた。
グレンが引いた革紐は、棚を支えていたつっかえ棒を外すための仕掛けだったのだ。
「なっ……!?」
ドッシャァァァン!!
数百キロに及ぶ大量の木箱と、分厚いオーク材の棚板が、刺客たちの上に容赦なく降り注ぐ。
地下室に悲鳴と轟音が響き渡り、もうもうと土埃が舞い上がった。
「がはっ……ぐ、動けねえ……っ!」
「足が、足が挟まった……!」
棚と木箱の下敷きになり、刺客たちは完全に身動きが取れなくなった。
グレンが彼らを地下室に誘導したのは、袋の鼠になるためではない。
この閉鎖空間を利用して、彼らを一網打尽に『閉じ込める』ためだったのだ。
「……処刑台は、先に組んでおくものだ」
グレンは土埃の中で、瓦礫の下敷きになってうめく男たちを見下ろし、極めて平坦な声で告げた。
「ひ、ひぃぃっ……化け物め……!」
リーダー格の男が恐怖に顔を引き攣らせる。
圧倒的な武力や魔法ではなく、ただの雑貨屋の在庫と環境を利用した、完全な無力化。
それが、王都最恐の元処刑人の真骨頂だった。
*
数分後。
店内の制圧を終え、グレンが地下室から一階の店舗へと戻ろうとした時だった。
「……見事な手際だ。昔から、お前のその無駄のない処理だけは評価していたよ」
入り口の扉から、静かな拍手の音が響いた。
冷たい雨が吹き込む中、黒い外套を着た男がゆっくりと店内へと足を踏み入れる。
灰冠局長、オルド・ケイン。
彼は倒れている部下たちを一瞥もせず、まるで散歩でもしているかのような余裕のある足取りで、グレンの目の前まで歩み寄ってきた。
「だが、少し甘くなったな。これだけの手間をかけながら、誰一人殺していないとは」
オルドの冷酷な瞳が、グレンを射抜く。
「お前は変われない。お前の手は、人を殺すためだけに作られたものだ。……それを、私が直々に思い出させてやろう」
オルドはそう言うと、グレンを通り過ぎ、そのまま地下室へと続く階段を降りていった。
グレンは無言のまま、その背中を見つめることしかできなかった。
オルドは部下の安否を確認しに行ったのではない。
数秒後、地下室からオルドの低く、歪んだ笑い声が聞こえてきた。
「……ほう」
オルドが地下室の奥で見つけたもの。
それは、かつてグレンが王都で振るい、無数の命を奪ってきた処刑道具。
奥の棚の裏にひっそりと隠されていた、古びた『黒い縄』だった。
「まだ、捨てられなかったか。……グレン」
過去の罪の象徴を握りしめ、オルドは暗闇の中で嬉々として笑った。
王都の闇が、グレンの過去を完全に暴き出した瞬間だった。




