第30話 灰冠局長オルド
辺境都市ラステルの南通りに、季節外れの冷たい雨が降っていた。
雑貨屋《からすの止まり木》の店内では、リナが退屈そうに売上帳の計算をし、ノアが箒で床の埃を払っている。
そこへ、カランと入り口の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ!」
リナが明るい声で顔を上げる。
店に入ってきたのは、黒い傘を畳み、仕立ての良い漆黒の外套を羽織った初老の紳士だった。
白髪交じりの髪を綺麗に撫でつけ、姿勢は真っ直ぐ。口元には穏やかで上品な微笑みを浮かべている。
「雨宿りをさせてもらっても構わないかな? 少し、冷えてしまってね」
「はい、どうぞ! ストーブの前の椅子を使ってください」
紳士の物腰の柔らかさに、リナもノアも全く警戒することなく彼をストーブの前へと案内した。
「ありがとう、お嬢さん。……とても良い店だ。店主の温かい人柄が伝わってくるようだ」
紳士はニコニコと笑いながら店内を見渡し、そして、カウンターの奥で品出しの作業をしていたグレンへと視線を向けた。
グレンは半分閉じた目のまま、ゆっくりと振り返る。
「……何をお探しで」
「いや、ただの雨宿りだよ。……グレン」
リナたちには聞こえない、極めて低い声。
グレンの背筋が、ほんのわずかに硬直する。
男の名はオルド・ケイン。
王都暗部《灰冠局》の局長であり、かつてグレンに数え切れないほどの処刑を命じてきた元上司だ。
「店主さんのお知り合いですか?」
リナが不思議そうに首を傾げる。
オルドは振り返り、リナの頭を優しく撫でた。
「ええ、昔の同僚でね。少しだけ、積もる話があるんだ」
「そうなんですか! じゃあ、温かいお茶を淹れますね!」
リナが店の奥の台所へと走っていく。
オルドは彼女の後ろ姿を微笑ましそうに見送り、再びグレンに向き直った。
その目には、先ほどの温和な光は微塵も残っていない。
「……処刑人が、人の親の真似事か」
オルドはカウンターに歩み寄り、グレンにしか聞こえない声で囁いた。
「血に塗れたその手で、あの無垢な少女の頭を撫でているのか? 笑える冗談だ。お前が過去に、どれほど多くの無実の者をその手で吊るしてきたか、あの子は知っているのか?」
グレンは無言のまま、カウンターの下で静かに拳を握り込んだ。
オルドはグレンの心の奥底にある罪悪感を的確にえぐってくる。
彼がかつて王命に従い処刑してきた者たちの中には、本当は無実であった可能性のある者、政治的な犠牲者となった者たちが数多く含まれていた。
セラの夫も、その一人だった。
その事実を知りながら、グレンを道具として使い潰してきたのは、目の前にいるオルド自身だ。
「お前は過去から逃げられない。お前の居場所は、王都の暗い地下牢と、処刑台の前にしかないのだ」
オルドの言葉は、まるで毒のように静かにグレンの心を浸食していく。
「……店主さん、お茶、淹れましたよ!」
リナが奥から戻ってくるのと同時に、入り口の扉が開いた。
雨の中、二人の屈強な男が入ってくる。オルドの護衛として同行してきた、灰冠局の暗殺者たちだ。
「局長。そろそろ、お時間です」
「ああ、そうだな。……長居をしてすまなかったね、グレン」
オルドは再び穏やかな老紳士の仮面を被り、リナが淹れた茶には口をつけずに立ち上がった。
護衛の男たちが、オルドの左右に立つ。
その直後だった。
雨を避けるように、今度は薬師のセラが店へと駆け込んできた。
「グレンさん、頼まれていた薬草の……」
セラは言葉を切った。
彼女の薬師としての鋭い嗅覚が、店内に漂う微かな『異臭』を捉えたからだ。
「……待って。そこ、動かないで!」
セラが叫んだのは、オルドの護衛の一人が、木箱の積まれた棚の横を通り過ぎようとした瞬間だった。
彼女の視線の先。護衛の男の手のひらから、無数の細い『針』が、木箱の隙間に向けて音もなく放たれていた。
男が去った後、リナやノアが木箱を動かそうとした際に指に刺さるように仕組まれた、遅効性の毒が塗られたトラップだ。
「ちっ……!」
見破られた護衛の男が舌打ちをし、懐から別の毒針を抜いてセラへと振り向こうとする。
だが、その行動は完全に遅かった。
「……店の中で、汚い真似をするな」
男が振り返るより早く、カウンターから飛び出していたグレンが、男の腕を背後から掴み上げていた。
グレンは男の手首を極めると、彼が手に持っていた毒針を、カウンターの上に置かれていた『石鹸水の入った小瓶』の口に強引に突き刺した。
ジュゥゥッ……!
アルカリ性の強い石鹸水が、針に塗られていた酸性の毒と反応し、小さな泡を立てて瞬時に無毒化していく。
「あ、ぐ……っ!」
グレンはそのまま男の腕を捻り上げ、木箱の隙間に仕掛けられていた残りの毒針をすべて、男自身の震える手で一本残らず回収させた。
「……拾え。すべてだ」
グレンのひどく静かで冷たい声に、男は脂汗を流しながら、仕掛けた毒針を自分の手で拾い集めるしかなかった。
「局長! こいつ……!」
もう一人の護衛が剣に手をかけようとするが、オルドがそれを手で制した。
「やめろ。……さすがは、私の最高傑作だ。腕は鈍っていないようだな」
オルドは無力化された部下を一瞥もせず、ただ感心したようにグレンを見た。
「セラさん、大丈夫ですか?」
リナが駆け寄り、セラを気遣う。
セラは小さく頷き、グレンの背中をじっと見つめていた。
過去の罪を持ち出され、精神を揺さぶられながらも、彼は今、この店と、ここにいる人々のために体を張っている。彼女はグレンとの静かな関係性が、決して見せかけのものではないことを改めて確信していた。
「……今日は、挨拶に来ただけだ」
オルドは静かに店を出ようと入り口に向かい、その途中で、棚に置かれていた子ども用の『飴』の瓶の前で立ち止まった。
「お嬢さん。この飴を、一つもらおうか」
オルドは銀貨を一枚カウンターに置き、色鮮やかな飴玉を一つ手に取った。
そして、それをリナに向かって差し出す。
「私からの、ほんの気持ちだ。……気をつけて帰りなさい」
「あ……ありがとうございます」
リナが戸惑いながらもそれを受け取ろうとした瞬間。
パシッ。
横から伸びてきたグレンの手が、オルドの腕を払い除け、その手から飴玉を奪い取った。
「……!」
グレンは奪い取った飴玉を、そのまま無造作に、入り口に置かれていたゴミ箱の中へと放り捨てた。
カラカラと、硬い飴が底に転がる音が響く。
「……俺の店で、あんたの金は受け取らない」
グレンの拒絶の意志は明確だった。
オルドの差し出す好意も、その裏にある脅迫も、すべてこの店には不要だ。
「……そうか。残念だよ、グレン」
オルドは捨てられた飴を冷たく見下ろし、それ以上何も言わずに店を出ていった。
冷たい雨の降る南通りに、黒塗りの馬車が走り去っていく。
グレンは半分閉じた目で、その馬車が見えなくなるまで、静かに睨みつけていた。




