第29話 盗むな、見るだけにしろ
辺境都市ラステルの裏路地。
かつて赤鼠商会に使われ、スリとして生きるしかなかった孤児のノアは、今、極度の緊張の中で息を潜めていた。
視線の先には、薄暗い廃屋の扉がある。
先日からこの街に潜り込んでいる、灰冠局の暗部たちの隠れ家の一つだ。
(あいつら、店主さんを狙ってる。……俺が、何か手がかりを見つけてやらねえと!)
ノアは小さな体をさらに丸め、廃屋の扉の隙間から中を窺った。
室内には誰もいない。だが、粗末な木机の上に、黒い革紐で結ばれた『木札』が置かれているのが見えた。
(あれは、暗号札だ。あいつらが持ってたのと同じだ!)
スリとしての本能が、ノアの身体を突き動かそうとする。
あの札を盗み出せば、奴らの計画や弱点が分かるかもしれない。音もなく忍び込み、素早く盗んで逃げる。今のノアなら、確実にできる自信があった。
ノアが一歩、廃屋へと足を踏み出そうとした、その時。
『盗むな。見るだけにしろ』
ふと、グレンの静かで平坦な声が脳裏に蘇った。
《からすの止まり木》に拾われた日。掃除の仕事を命じられた時に言われた、たった一つの教え。
(……そうだ。店主さんは、俺に盗みなんて頼んでない)
ノアは踏み出した足を、ゆっくりと引っ込めた。
暗部の人間は、必ず罠を仕掛けている。札を盗めば、それが発覚した時点で警戒され、逆にグレンを窮地に陥れるかもしれない。
ノアは盗むことを諦め、代わりに扉の隙間から、机の上の木札に刻まれた『複雑な文様』を、まばたきすら忘れて脳裏に焼き付けた。
「……よし」
文様を完璧に記憶したノアは、足音一つ立てずにその場から離れ、南通りへと駆け戻った。
*
《からすの止まり木》のカウンター。
「……なるほど。これは灰冠局が局員同士の連絡に使う、第二種暗号ですね」
ノアが必死に紙に書き写した文様を見て、王都監察官のイリスが真剣な顔で呟いた。
彼女は王都の文書係ミレーユからの情報を元に、その暗号の解読を進めていく。
「解読できました。……『旧処刑場にて合流』。そして……『第一標的の監視を継続。対象は、雑貨屋の店番の少女』」
イリスの言葉に、店内の空気が一瞬で凍りついた。
リナが監視されている。
灰冠局の奴らは、グレンを直接狙う前に、彼の弱点である『店の子』を人質に取ろうと動いていたのだ。
「リナはどこだ?」
グレンが低く問う。
「あ、えっと……さっき、マルタ婆さんのところにパンのお使いに行ったきり……」
ノアが青ざめた顔で答える。
グレンはそれ以上何も言わず、エプロンのまま無言で店を飛び出した。イリスもそれに続く。
ノアも慌てて後を追おうとしたが、グレンが振り返り、ノアの頭にポンと手を乗せた。
「……よくやった。だが、次は『見たこと』も悟らせるな」
「店主さん……」
「店で待っていろ」
グレンは短く言い残し、路地の奥へと消えていった。
*
南通りの入り組んだ裏路地。
リナは、マルタ婆さんのパン屋からの帰り道で、明らかな異変を感じていた。
背後から、足音のない気配が一定の距離を保ってついてきている。
(……つけられてる)
かつて貴族家で虐待され、常に他人の顔色と気配を窺って生きてきた彼女は、悪意の接近には敏感だった。
(逃げなきゃ……でも、真っ直ぐ走ったら追いつかれる!)
リナは焦る気持ちを抑え、あえて歩調を変えずに歩き続けた。
そして、路地の交差点に差し掛かった瞬間。
彼女は突然、脇道にあった『腐った木箱』を強く蹴り飛ばし、その反動で狭い路地へと一気に駆け込んだ。
「チッ……気付かれたか!」
背後をつけていた灰冠局の監視役が舌打ちをし、すぐさま路地へと飛び込んでくる。
だが、そこは行き止まりではなかった。
バキィッ!
「うおっ!?」
監視役が踏み込んだ瞬間、路地の床板が派手な音を立てて砕け、男の足が深く沈み込んだ。
「……ここ、床板が腐ってて危ないからって、店主さんが裏道の地図で教えてくれてたんだから!」
リナは床板の抜ける位置を正確に把握し、そこを避けて奥へと逃げ込んでいたのだ。
日常の中でグレンから教わっていた小さな知識が、灰冠局のプロの足止めに成功した。
「クソガキが……舐めるなよ!」
男は沈み込んだ足を引き抜き、怒りに顔を歪めてリナへと跳躍しようとした。
だが、彼が足を引き抜いたのと同時だった。
「……遅い」
男の背後。
いつの間にか背後に回っていたグレンが、持っていた『井戸縄』を男の首元へと無造作に投げ放った。
「がはっ!?」
縄の先端に結ばれた小さな重りが、男の首に絡みつく。
グレンはそのまま縄を強く引き絞り、男の呼吸を瞬時に奪った。
「あ、が……っ!」
「……俺の店の子を監視して、生きて帰れると思ったか」
グレンのひどく冷たい声に、男は白目を剥いて完全に意識を失い、石畳の上に崩れ落ちた。
魔法や暗器を取り出す隙など、一秒たりとも与えなかった。
「店主さん!」
リナがへたり込みながら、安堵の涙を浮かべてグレンを見上げる。
グレンは倒れた男を縛り上げながら、リナに向かって短く言った。
「……よく逃げたな。怪我はないか」
「はい……! 店主さんが教えてくれた地図のおかげです」
追いついたイリスが、縛り上げられた暗部の男を見て息を呑む。
少女一人の機転による時間稼ぎと、元処刑人の完璧な連携。それが、王都の精鋭をいとも容易く無力化したのだ。
*
その日の夜。
王都から遠く離れた、王国の中央街道を走る一台の黒塗りの馬車があった。
馬車の中には、仕立ての良い黒服を着た、神経質そうな細身の男が座っている。
灰冠局の局長、オルド・ケイン。
「……報告にあった、ラステルでの監視役の消息が絶たれました」
向かいに座る部下の報告に、オルドは表情一つ変えずに窓の外を見つめた。
「そうか。やはり、下っ端をいくら送り込んでも無駄だったな」
「局長、自ら赴くのは危険です。あのアウトローには、我々の戦術が通用しません」
「……アウトロー? 勘違いするな」
オルドの冷酷な瞳が、薄暗い車内で不気味に光った。
「あれは野良犬ではない。私が教育し、私が最高傑作として育て上げた、王国の飼い犬だ。……飼い主の顔を忘れ、辺境で雑貨屋ごっこに興じているのなら、私が直接思い出させてやるまでだ」
オルドは手元のワイングラスを弄びながら、静かに、そして楽しげに笑った。
「待っていろよ、グレン。お前の作った温かい箱庭を、私自らの手で壊してやる」
王都の最悪の闇が、確実に、辺境の雑貨屋へとその歩みを進めていた。




