第28話 黒塗りの記録と、小さな処刑
王都監察官イリス・フローラが滞在する宿の小さな一室。
分厚いカーテンで窓を覆い、蝋燭の小さな明かりだけを頼りに、彼女は王都から送られてきた暗号文の束と格闘していた。
送り主は、王都監察局の文書係であり、イリスの同期であるミレーユ・カルヴァだ。
彼女が危険を冒して灰冠局の深部から引き出し、復元してくれた『黒塗りされた処刑記録』の写し。
そこには、王命直属の秘密処刑機関が過去に行ってきた、血塗られた歴史が刻まれていた。
「これは……」
イリスは、解読を進めるうちに血の気が引いていくのを感じた。
記録の大部分は、王国に対する反逆者や、帝国の密偵の処刑である。
だが、その中に不自然な項目がいくつも混ざっていた。
『横領の疑い』『反逆の兆候あり』といった曖昧な理由で処刑された者たちのリスト。その中には、清廉潔白で知られた文官や、王都の腐敗を追及しようとしていた貴族の名前が含まれている。
(明確な反逆者ではない……政敵の排除。あるいは、真実を隠蔽するための口封じ)
灰冠局は、国家の正義のために剣を振るっていたわけではない。
当時の権力者の都合の悪い者たちを、合法的な裁判も経ずに闇から闇へと葬り去っていたのだ。
そして、その実行者の一人であった『執行人04』――グレン・ガロウズは、正義の使者などではなく、国家の汚れ仕事のすべてを背負わされていた政治的犠牲者の一人であるとも言えた。
「法が捨てた死体を片づけている……」
先日、路地裏でグレンが言い放った冷酷な言葉が、イリスの耳に蘇る。
法すらも腐敗している現実を前に、彼女は己の信じる正義の足元が、脆くも崩れ去っていくような眩暈を覚えた。
*
翌日の昼下がり。
ラステルの南通りに、不快な風が吹いていた。
「おい、婆さん。あの雑貨屋にはもう近づかない方が身のためだぜ」
パン屋のマルタ婆さんが店先を掃除していると、見慣れない顔の男が馴れ馴れしく声をかけてきた。
男はニヤニヤと笑いながら、粗悪な紙に刷られたビラ――流言紙を、マルタ婆さんのエプロンに押し付けた。
「なんだい、急に。私は忙しいんだよ」
「親切で教えてやってるんだ。あの《からすの止まり木》の親父は、王都から追われる重罪人らしい。あんな奴と関わってると、婆さんも王都の法で極刑にされるぞ?」
男の声はわざと大きく、通りを歩く他の街人たちにも聞こえるように放たれていた。
「王都の暗部が、もうすぐあの店を潰しに来る。黒縄の呪いに関わった奴は全員、同罪としてしょっ引かれるらしいぜ」
流言屋だ。
灰冠局の刺客が直接手を下す前に、街のゴロツキや情報屋を金で雇い、標的の周囲を孤立させるための常套手段である。
「くだらないね! 英雄でも雑貨屋でも、あいつはあんたらみたいなチンピラよりよっぽどマシさ!」
マルタ婆さんが流言紙を地面に叩きつけて一喝するが、通りを歩く他の住民たちの顔には、明確な不安の色が浮かんでいた。
ヴェイン男爵という巨大な権力が倒れた直後だ。王都というさらに上位の存在から目をつけられていると知れば、平民が萎縮するのは当然のことだった。
「強がるのも今のうちだぜ。せいぜい――」
男がさらに不安を煽ろうと、別の流言紙の束を取り出そうとした、その時。
「……随分と、熱心な紙撒きだな」
男の背後から、静かな声が降ってきた。
男が振り返る間もなく、その首根っこを無精髭の男――グレンが背後から鷲掴みにした。
「がはっ!?」
グレンはそのまま男の体を軽々と持ち上げ、路地裏のレンガ壁へと音もなく叩きつけた。
周囲の街人たちが驚いて息を呑む。
「て、てめえ、黒縄……っ! 俺に危害を加えりゃ、街の連中がどうなるか……」
「……」
グレンは男の脅しなど耳に入っていないかのように、無表情のままエプロンのポケットから『ある物』を取り出した。
それは、分厚い布や革を縫い合わせるための、太く鋭い『裁縫針』と、頑丈な『麻糸』だった。
「な、何をする気だ……?」
男が恐怖に顔を引き攣らせた瞬間。
グレンは男が地面に落とした流言紙の束を拾い上げ、それを男の胸元に当てた。
そして、目にも留まらぬ速さで、男の上着の生地に針を突き立てた。
ブツッ、ザクッ!
「ひぎゃあッ!?」
男が悲鳴を上げる。
だが、針は男の皮膚には一切触れていない。
グレンは元処刑人としての異常な精度と速度で、男の着ている服の生地だけを掬い上げ、そこに流言紙を直接、何箇所も縫い付けていったのだ。
「動くな。針が刺さるぞ」
淡々とした低い声に、男は恐怖で完全に硬直した。
数秒後。
男の服には、自身がばら撒こうとしていた流言紙が、まるで醜い鎧のようにびっしりと縫い付けられていた。
グレンは男の首根っこを掴んだまま、南通りから市場へと繋がる、最も人通りの多い広場へと引きずり出した。
「あ、あああ……」
広場の中心に放り出され、全身に「黒縄の呪い」と書かれた紙をぶら下げた男に、街人たちの好奇と嘲笑の視線が集中する。
「……口で撒いた嘘は、身にまとって償え」
グレンは広場の中心でへたり込む男を見下ろし、極めて冷酷に告げた。
「吐け。誰から金を受け取った」
「ひ、ひぃぃ……っ! わ、分からない! 顔を隠した黒い外套の男から、銀貨を渡されて……紙を撒けばさらに払うと……!」
男は涙と鼻水にまみれながら、隠し立てすることなくすべてを自白した。
王都の暗部が金で雇ったに過ぎない小悪党。その程度の忠誠心など、グレンの静かな圧力の前には紙切れ同然だった。
「あれ、灰冠局の手先だったのか」
「金で嘘をばら撒いてただけかよ。情けねえ」
街人たちの不安は、醜態を晒す流言屋への冷ややかな蔑視へと変わった。
男は街人たちの視線に耐えきれず、全身に紙を縫い付けられた滑稽な姿のまま、這うようにして広場から逃げ出していった。
剣も魔法も使わず、ただの裁縫道具と紙切れで、流言という目に見えない悪意を物理的に封じ込めた。
小さな処刑。
街の日常を脅かす嘘は、これ以上ないほど滑稽な形で処理されたのだった。
*
同じ頃。イリスの宿の一室。
彼女は、広場での小さな騒ぎを知る由もなく、ただ目の前の黒塗り記録の束と向き合い続けていた。
「……これも、不自然ですね」
イリスは、記録の後半にあったある一つの事件名に目を留めた。
それは、数年前に辺境で発生したとされる『王国製薬草の不法横流し事件』。
帝国との密貿易を隠蔽するために、ヴェイン男爵がでっち上げた架空の罪状だ。
記録によれば、その首謀者として一人の平民が灰冠局によって内偵され、そして「不慮の事故」として処理されたと記されている。
イリスは、その不慮の事故で亡くなったとされる首謀者の名前の黒塗りを、ミレーユが解読してくれた添え書きと照らし合わせた。
「……そんな」
イリスの瞳が、驚愕に見開かれた。
そこに記されていた名前。
それは、帝国ではなく、王都の暗部自身が直接手を下したことを示す、決定的な証拠。
セラの亡き夫の名前が、灰冠局の処刑対象記録の中に、はっきりと刻まれていたのだ。




