第22話 家名ごと吊るす
男爵邸の地下深く。広大な密輸倉庫に、重苦しい駆動音が響き渡った。
「やれ! その男を肉片一つ残さず粉砕しろ!!」
ヴェイン男爵の狂乱した叫び声に呼応し、鉄格子の奥から巨大な影がゆっくりと進み出た。
身長は三メートル近く。分厚い鋼鉄の装甲で全身を覆われ、関節部からは青白い魔力が蒸気のように漏れ出している。
帝国から特別に供与された、殺戮に特化した『魔導護衛』。
その右腕には、大木すらへし折るであろう巨大な鉄球が接続されていた。
「ははははっ! 見たか! これが帝国の力だ!」
男爵は魔導護衛の背後に隠れるように下がり、勝ち誇ったように笑う。
「お前がいくら素早く動こうと、小細工を使おうと無駄だ! この魔導護衛には人間の痛覚などない! ただ命令に従い、お前が死ぬまで鉄球を振り下ろし続ける!」
ズシン、ズシンと、魔導護衛が歩みを進めるたびに、地下倉庫の床が揺れる。
人間ではないため、関節を外そうが、喉を潰そうが意味を成さない。圧倒的な質量と無尽蔵の魔力による、純粋な暴力。
だが、グレンはその巨大な鉄の塊を見上げても、やはり顔色一つ変えなかった。
彼は無精髭の顎を少しだけ引き、半分閉じた眠そうな目で、目の前の『機械』を淡々と観察していた。
(……動力源は胸部の魔導核。動きに合わせて、冷却用の吸排気を行っているな)
魔導護衛が鉄球を振り上げた。
空気が悲鳴を上げ、風圧だけで周囲の木箱が吹き飛びそうになる。
「死ねェッ!」
男爵の絶叫と共に、巨大な鉄球がグレンの頭上へと叩き落とされた。
石の床が粉々に砕け散り、凄まじい土埃が舞い上がる。
「ははっ、やったぞ! ただの平民が、帝国の技術に勝てるはずが――」
「……歩幅が大きい。足元がお留守だ」
土埃の中から、低く静かな声が響いた。
男爵が目を見開く。
グレンは鉄球が直撃する寸前、魔導護衛の足元の死角へと滑り込むように移動していた。
グレンの手には、いつも彼が店で使っている真鍮製の『秤』が握られている。
彼はその秤の皿の部分を、魔導護衛の鋼鉄の装甲に軽く当てた。
「な、何をしている……?」
男爵には、グレンの行動の意味が全く理解できなかった。
グレンは秤を通じて、装甲の向こう側で稼働している魔導核の『振動』を指先で読み取っていたのだ。
「……三、二、一。……吸気」
グレンが短く呟いた直後。
魔導護衛の胸部装甲の一部が開き、シュゥゥッという音と共に、冷却のための外気を勢いよく吸い込み始めた。
そのわずかな開口部に向けて、グレンはエプロンのポケットから取り出した『香辛料の小袋』を正確に投げ入れた。
極限まで細かく挽かれた、刺激の強い赤唐辛子の粉末が詰まった袋だ。
「なっ!?」
小袋は吸気の気流に乗って、魔導護衛の内部――魔導核の冷却ファンへと直接吸い込まれた。
直後、魔導護衛の駆動音が不自然に甲高く跳ね上がった。
細かな香辛料の粉末が、冷却機構の精密なギアに詰まり、摩擦熱を一気に上昇させたのだ。
ガガガガッ! キュイィィィン!!
「ど、どうした! なぜ動かない!」
男爵が慌てて叫ぶが、魔導護衛の動きは完全に停止していた。
内部からの異常な過熱により安全装置が働き、魔導核が強制停止したのだ。
ただの香辛料の粉末が、帝国の誇る殺戮兵器を機能不全に陥らせた瞬間だった。
「ば、馬鹿な……こんな、こんなことが……!」
男爵は信じられないものを見る目で、機能停止した魔導護衛と、その足元で静かに立ち上がるグレンを交互に見つめた。
自分が絶対だと信じていた権威も、帝国の力も、ただの雑貨屋の親父によってすべて打ち砕かれた。
その事実が、彼の中に決定的な恐怖を植え付けた。
「ひっ……!」
男爵は踵を返し、地下倉庫の奥にある非常口へと向かって無様に走り出した。
逃げなければ。この男に殺される。
プライドも体面もかなぐり捨て、ただ命惜しさに冷たい石畳を這うようにして逃げる。
だが、非常口の扉に手をかけた瞬間。
彼の背後に、音もなくグレンが立っていた。
「あ、あ、あああ……っ!」
男爵は腰を抜かし、扉を背にしてへたり込んだ。
ガタガタと震えながら、グレンを見上げる。
「た、助けてくれ! 金ならいくらでも出す! 薬草利権も、この屋敷も、すべてお前に譲る! だから命だけは……!」
かつて、孤児や未亡人を「雑草」と呼び、価値のない道具として見下していた男が、今は自分が最も価値のない命乞いをしている。
グレンは、哀れな姿を晒す男爵を無表情で見下ろした。
そして、彼を蹴り飛ばすことも、首を締めることもしなかった。
「……お前は殺さない」
グレンの静かな言葉に、男爵は一瞬だけ安堵の表情を浮かべた。
だが、その安堵は、続く冷酷な宣告によって完全に打ち砕かれることになる。
「王都にも送らない。……お前が最も恐れている形で、終わらせる」
*
翌朝。
辺境都市ラステルの中心にある、商人組合の巨大なホールの前。
そこには、街中の商人、薬師組合の代表たち、そして、男爵の不当な土地買収によって居場所を奪われそうになっていた孤児院の院長や被害者たちが集められていた。
皆、突然の呼び出しに戸惑っていたが、ホールの前に『ある光景』が広がっているのを見て、息を呑んだ。
広場の中央。
そこには、男爵の私兵たちから押収された、帝国との密貿易を記した膨大な帳簿。偽造された薬草の出荷記録。そして、セラの亡き夫を暗殺した証拠となる裏金の支払書が、誰の目にも明らかな形で積み上げられていた。
そして、その証拠の山の前に、一人の男が引き据えられていた。
「だ、男爵様……?」
誰かが信じられないというように呟いた。
そこには、上質な外套を泥に汚し、髪を振り乱したマルクス・ヴェイン男爵が、膝をついて座り込んでいたのだ。
彼の胸元にあった誇り高き貴族の紋章は、すでに剥ぎ取られている。
群衆の中から、グレンが静かに歩み出た。
彼は集まった人々に向けて、淡々とした声で事実だけを告げる。
「……これが、お前たちを苦しめていた毒の正体だ」
商人や被害者たちが、積み上げられた証拠の束を手に取り、その内容を確認していく。
驚愕はすぐに怒りへと変わり、その怒りは目の前で膝をつく男爵へと向けられた。
「なんてことを……! 私らの生活を食い物にして、帝国に尻尾を振っていたのか!」
「私の店を潰そうとしたのも、こいつの仕業だったんだな!」
怒号が飛び交う中、男爵はただガタガタと震え、顔を上げることもできなかった。
地位を何より重んじ、平民をゴミのように見下してきた彼にとって、こうして『彼ら』の前で罪を暴かれ、見下されることは、死以上の苦痛だった。
グレンは正義を語らない。
ただ、地位で人を踏みにじった者には、その地位と名前を完全に奪い取るという『最も効く処刑』を選んだだけだ。
「……これで、お前の家名も、利権も、すべて終わりだ」
グレンの冷たい宣告が、男爵の心臓を完全に貫いた。
商人組合と薬師組合は即座に男爵のすべての取引を凍結し、領主への告発状の作成を始めた。男爵はもう、この街はおろか、王国のどこにも居場所はない。
完全なる社会的死亡。
セラの亡き夫の仇討ちは、法や剣によってではなく、真実の公開という形で果たされたのだ。
「……あ、あ、ああ……」
すべてを失い、群衆の怒りに囲まれた男爵が、焦点の合わない目で宙を見つめる。
彼は壊れたような掠れ声で、グレンに向かって呟いた。
「私を……潰しても……薬草は、もう帝国へ……流れている……」
その言葉は、街を救ったという安堵の余韻を、冷たい風のように切り裂いた。
グレンは半分閉じた目で、男爵のその虚ろな顔を静かに見下ろしていた。




