第21話 紋章を剥ぐ準備
冷たく乾燥した空気が漂う男爵邸の地下倉庫。
ランプの薄明かりを頼りに、グレンは山と積まれた木箱の奥を静かに調べていた。
箱の中には、辺境の森で採取された希少な薬草がぎっしりと詰め込まれている。だが、その一部には厳重に封印された鉛の小瓶が隠されていた。
中身は、帝国で精製された遅効性の猛毒だ。
そして、その出荷先や裏金の流れを克明に記した分厚い『密貿易記録』の帳簿。
グレンは半分閉じた目で、帳簿の古いページをめくる。
そこには、男爵の事業にとって「目障りな者」を排除した記録が、冷酷な数字と隠語で記されていた。
数年前の日付。処理費用としての銀貨の支払い記録。そして、その横に添えられた名前。
街の小さな薬屋の主であり、セラの亡き夫の名だ。
(……やはり、事故ではない)
セラの夫は、街に流れ込む毒の出処を突き止めようとして、男爵の私兵によって暗殺されたのだ。
妻であるセラを残し、志半ばで無念の死を遂げた男の記録を、グレンは静かに懐へと収めた。
「……随分と熱心に読書をしているようだな、ネズミ一匹」
背後から、足音と共に落ち着き払った声が響いた。
振り返ると、階段の入り口に、上質な外套を羽織ったヴェイン男爵が立っていた。その隣には、屈強な私兵隊長が抜刀した状態で控えている。
「結界が破られたと聞いて様子を見に来れば……なるほど。南通りの雑貨屋が、なぜここにいるのかな」
男爵はグレンの顔を認めると、小さく鼻で笑った。
「薬屋の女にでも泣きつかれたか? 底辺の商人風情が、英雄気取りで私の屋敷に忍び込むとは、滑稽を通り越して哀れだな」
「……」
「お前が何を懐に入れたかなど、想像はつく。私の商売の帳簿と、あの目障りな医者の始末書だろう?」
男爵は悪事を暴かれたというのに、焦る様子を微塵も見せなかった。
それどころか、余裕に満ちた優雅な足取りで、グレンの数歩手前まで歩み寄ってくる。
「それを見て、どうするつもりだ? 衛兵に突き出すか? それとも王都の監察官にでも訴え出るか?」
「……」
「無駄だと言っているのだよ。証拠など、いくらでもでっち上げられるし、握り潰せる。私が持つ『貴族』という名は、平民の戯言ごときで傷つくほど安くはない。この街の法も、経済も、すべて私が握っているのだからな」
男爵は、自分とグレンとの間には絶対に覆らない身分と権力の壁があることを疑っていなかった。
だからこそ、これほど無防備に、自らの罪を平然と口にできるのだ。
「終わらせろ」
男爵が冷酷に言い放ち、背後の私兵隊長に顎でしゃくった。
「その男を殺し、木箱もろとも燃やせ。帳簿が灰になれば、最初から何もなかったのと同じことだ」
「はっ!」
私兵隊長が邪悪な笑みを浮かべ、近くにあった油樽を蹴り倒した。
ドクドクと黒い油が床に広がり、グレンの足元へと迫る。
隊長は腰のポーチから火打石を取り出し、油に向かって激しく打ち鳴らそうとした。
カチッ。
鈍い音が響く。だが、火花は散らない。
「あ……?」
隊長は怪訝な顔をして、もう一度、力を込めて石を打ち合わせる。
カチッ、カチッ。
やはり、火花は一筋も出ない。
男が持っているのは、火を熾すための硬い石ではなく、ただの角が丸くなった滑らかな『川石』だった。
「な、なんだこれは……俺の火打石はどこへ……!?」
パニックになり、手元の石を凝視する私兵隊長。
その時、極めて静かな足音が、すでに男の懐まで入り込んでいた。
「……刃物より先に、火種を奪う。基本だ」
グレンの右手が、軽く開かれた。
その掌の中には、隊長が本来持っていたはずの、鋭利な本物の火打石が握られていた。
「て、てめえ、いつの間に……!」
隊長が驚愕に目を見開いた瞬間、グレンの掌底が、正確無比な角度で男の顎を真下から打ち抜いた。
ゴッ!
脳を強烈に揺らされ、私兵隊長は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
油の広がる床に倒れ込み、ピクリとも動かなくなる。
グレンは事前に屋敷の構造を調べた際、男爵が私兵たちに支給している火打石の予備をすべて使い物にならない石にすり替えていた。そして、今倒した隊長のポーチの中身も、彼らが階段を降りてきて言葉を交わすわずかな隙に、音もなくすり替えていたのだ。
証拠隠滅の炎は、熾されることすらなく無残に不発に終わった。
「なっ……貴様、私の部下に何を……!」
完全に計算が狂ったヴェイン男爵の顔から、初めて余裕の笑みが消え去った。
グレンは倒れた隊長を一瞥もせず、男爵へと静かに歩み寄る。
男爵は恐怖に顔を引き攣らせて後ずさったが、グレンの手の方が早かった。
グレンの手が伸びたのは、男爵の首ではない。
男爵の胸元に誇らしげに飾られていた、純銀製の『紋章入り封蝋の印璽』だった。
ブチッ、と鎖が引きちぎられ、男爵の権威の象徴がグレンの手に収まる。
「あ、ああっ……私の紋章を! 返せ、下民が!」
男爵が金切り声を上げるが、グレンは印璽をエプロンのポケットへと無造作に突っ込んだ。
グレンは男爵をここで殺すつもりはなかった。
王都の暗部に送るつもりもない。
この男が最も恐れるのは、命を失うことではなく、その『地位』と『名誉』を剥奪され、見下していた平民たちの前で泥に塗れることだ。
だからこそ、グレンはこの帳簿と、男爵自身の紋章が押された証拠の写しを、街の商人組合や薬師組合、そして孤児院関係者たちに一斉に回すつもりだった。
王都という外部の力に頼らず、街の人間たちの手でこの男を社会的に抹殺するための準備。
これが、グレンが選んだ『処刑』の形だ。
「……お前の地位は、明日で終わりだ」
グレンの冷酷な死刑宣告に、男爵は顔を真っ赤にして激昂した。
「ふざけるな……! 私を誰だと思っている! 私はマルクス・ヴェイン男爵だぞ!」
男爵は狂ったように叫びながら、倉庫の奥、厳重な鉄格子で守られた巨大な扉へと駆け寄った。
彼が首から下げていた別の鍵を乱暴に差し込み、鉄格子を開け放つ。
ギギギギギ……ッ!
重い音を立てて扉が開くと、そこには冷たい鉄の匂いと、圧倒的な魔力の波動が満ちていた。
暗闇の中で、二つの赤い光が不気味に灯る。
それは人間ではない。帝国から密貿易の対価として特別に譲り受けた、鋼鉄と魔石で構成された巨大な殺戮人形。
帝国製の『魔導護衛』だった。
「やれ! その男を肉片一つ残さず粉砕しろ!!」
男爵の絶叫と共に、魔導核の駆動音が地下倉庫に重々しく響き渡り始めた。




