第20話 男爵邸の床に油を
夜の闇が辺境都市ラステルをすっぽりと覆い隠した頃。
街の南側、小高い丘の上に建つヴェイン男爵の邸宅は、周囲を威圧するような静寂と暗闇に包まれていた。
高い石組みの塀と、厳重に施錠された鉄の門。さらに敷地内には、等間隔で私兵たちが巡回している。
だが、その程度の物理的な警戒網は、グレンにとって何の意味も持たなかった。
古びたエプロン姿の彼は、音もなく塀を乗り越え、私兵たちの視線と足音の隙間を縫うようにして、広大な敷地内へと潜入していく。
グレンの目的は、男爵の暗殺ではない。
ここで男爵の命を絶ったとしても、彼が築き上げた帝国の密輸網や、街に毒を流した証拠は別の誰かに引き継がれるか、あるいは永遠に闇に葬られるだけだ。
必要なのは、密貿易の正確な記録。そして、帝国と交わした契約書。
悪党の命を奪うことよりも、彼らが何を守り、何を恐れているのかを正確に把握し、その地位と名誉を完全に剥奪すること。それが、今のグレンが選んだ『後始末』のやり方だった。
屋敷の裏口から内部へと入り込み、上質な絨毯が敷かれた廊下を進む。
薄暗い屋敷の中には、不自然なほど警備の私兵の姿がない。
その理由は、廊下の先にある大広間へ足を踏み入れた瞬間に明らかとなった。
「……ネズミが入り込んだと思えば、随分と貧相な身なりだな」
広間の中央。
月明かりが差し込む空間で、豪奢なローブに身を包んだ男が待ち構えていた。男爵が大金で雇い入れた、結界魔術師だ。
広間の大理石の床には、部屋全体を覆うように、極めて複雑で緻密な幾何学模様――防御魔法陣が描かれている。
「私の結界は、不審な魔力や殺気をわずかでも感知すれば即座に作動する仕組みになっている。お前が敷地に足を踏み入れた瞬間から、こうして迎撃の準備を整えていたのだ」
魔術師は、手に持った短い杖を弄びながら冷笑した。
「男爵様からは、侵入者は生かして捕らえろと言われている。だが、ただの底辺の雑貨屋が相手なら、ここで少し痛めつけても問題はあるまい。平民風情が、本物の魔術の恐ろしさをその身に刻むがいい」
魔術師はグレンの沈黙を恐怖によるものと解釈し、余裕の笑みを深めた。
そして、短く鋭い詠唱を紡ぎ始める。
「拒絶の光よ、我が前に――」
魔術師の言葉に呼応し、床に描かれた魔法陣が眩い光を放ち始めた。
空気が震え、常人であれば触れただけで弾き飛ばされ、全身の骨が砕けるほどの強固な魔力の壁が形成されようとしている。
魔法は強い。
ひとたび完全に発動を許してしまえば、剣や物理的な暴力で正面から打ち破ることは不可能に近い。
だが、グレンは立ち止まることも、後退することもしなかった。
彼は歩みを緩めないまま、エプロンのポケットから一本の小さな『ガラス瓶』を取り出し、床に向かって滑らせるように投げ放った。
それと同時に、もう一方の手で小さな革袋の口を開け、中身の粉末を前方の床一面に勢いよく撒き散らした。
パリンッ!
ガラス瓶が魔法陣の境界線で砕け散る。
中に入っていたのは、ランプの火を灯すための、粘り気のある『ランプ油』だ。
そして、空中に舞った粉末は、かまどの底からかき集めてきた細かい『灰』である。
飛び散ったランプ油が床の大理石の上を薄く滑り、そこに細かい灰が降り注いで混ざり合う。
それはドロドロとした黒い汚泥のようになり、広間の床に美しく描かれていた魔法陣の線の上へと、広範囲に広がっていった。
「なっ……!?」
魔術師が驚愕に目を見開いた。
精緻に計算され、完璧な魔力伝導を誇っていた染料の線が、油で滲み、灰によって物理的に汚され、乱されていく。
バチッ! バツンッ!!
発動しかけていた結界の光が、突如として不規則に明滅を始めた。
魔力の回路がショートし、空気を震わせていた強固な壁が、ただの陽炎のようにグニャグニャと歪んでいく。
結界そのものと正面から戦うのではなく、結界を成立させる『線』という前提条件を物理的に破壊する。
それが、魔法を使えないグレンの、魔法使いに対する確実な処刑方法だった。
「ば、馬鹿な! 私の完璧な魔法陣が、こんなゴミ屑みたいな油と灰で……!」
魔術師はパニックに陥り、慌てて床に膝をついた。
油で汚れた染料の線を自らの指でなぞり、強引に魔力を流し込んで修復しようと試みる。
「くそっ、繋がれ! これくらい、私の手印で――」
魔術師が複雑な印を結ぼうと指を動かした、その瞬間。
ヒュッ。
空気を切り裂く微かな音が鳴った。
グレンの手から放たれた数本の『裁縫針』が、床に這いつくばる魔術師の手の甲と、印を結ぼうとしていた指の関節に、深々と突き刺さった。
「ぎゃああああっ!?」
神経の急所を的確に貫かれ、魔術師の指の動きが完全に硬直する。
激痛に顔を歪め、指先から練り上げようとしていた魔力も霧散し、修復の手印は完全に崩壊した。
機能不全に陥った魔法陣は、最後にパキンという小さな音を立てて、その光を完全に失った。
グレンは、床で指を押さえてのたうち回る魔術師を見下ろし、極めて平坦な声で告げた。
「……線は綺麗に引け。処刑台も魔法陣も同じだ」
圧倒的な自信を誇っていた結界魔術師が、自慢の魔法を発動することすらできず、ただの雑貨屋の道具によって無様に無力化された。
魔術師は痛みと絶望に耐えきれず、やがて白目を剥いて完全に意識を手放した。
広間に再び静寂が戻る。
グレンは倒れた魔術師を一瞥もせず、広間の奥にある重厚な木の扉へと向かった。
そこは、男爵邸の地下へと続く隠し階段だった。
暗く冷たい階段を降りると、そこは広大な地下倉庫になっていた。
グレンがランプの明かりを頼りに奥へと進むと、そこには木箱が山のように高く積まれていた。
木箱の隙間からは、薬草特有の強い匂いが漏れ出している。
箱に押された焼印は、この街の商人組合のものではない。帝国軍への納品を示す、帝国向けの出荷印だった。
「……ここが密輸の中継地点か」
男爵は街の薬草利権を奪い、帝国へ横流ししていたのだ。
グレンはさらに奥へと歩を進める。
真新しい出荷箱の山の裏に、埃を被った古い木箱がいくつか積まれているのを見つけた。
最近のものではない。数年前からそこに放置されているような古さだ。
グレンは一番手前にある古い木箱に近づき、そこに結びつけられている色褪せた『荷札』をランプの光に透かして見た。
「……」
半分閉じた眠そうな目が、わずかに見開かれる。
色褪せ、汚れで読みにくくなったその古い荷札には、出荷者の名前が記されていた。
それは、帝国と密貿易を行っている男爵の名前ではない。
数年前、帝国から流れ込む毒の流通経路を調べ、不審な事故死を遂げた街の医者。
セラの亡き夫の名前だった。
男爵の裏の顔と、薬師の未亡人の悲しい過去が、薄暗い地下倉庫で明確に結びついた瞬間だった。




