第19話 結界魔術師
辺境都市ラステルの南側に位置する、ヴェイン男爵の広大な屋敷。
その豪奢な応接室の床には、複雑な幾何学模様の魔法陣が描かれていた。
「……見事なものだな」
上質なソファに深く腰掛けたヴェイン男爵が、ワイングラスを傾けながら感嘆の声を漏らした。
「お褒めに預かり光栄です、男爵様」
部屋の中央に立つローブ姿の男が、恭しく頭を下げる。
男爵が大金をつぎ込んで雇い入れた、王都出身の結界魔術師だった。
彼は短く短い詠唱を紡ぐだけで、屋敷全体を覆う強固な防御魔法陣を展開することができる。
「この結界が張られている限り、外からの物理的な侵入はすべて弾かれます。さらに、不審な魔力や殺気を持った者が一歩でも敷地に入れば、即座に私に感知される仕組みとなっております」
「素晴らしい。これで、夜中に薄汚いネズミが入り込む心配もないというわけだ」
男爵は満足げに笑みを深めた。
薬屋の買収も、孤児院跡地の接収も、南通りの雑貨屋の親父に邪魔された。だが、彼にとって本命はあくまで帝国向けの薬草密輸だ。
屋敷の地下にある中継倉庫さえ守り抜けば、いずれ莫大な利益が転がり込んでくる。
「どんなに腕が立とうと、所詮は平民の雑貨屋。本物の魔術の前に平伏すがいい」
紳士の仮面の下で、男爵は冷酷な優越感に浸っていた。
*
その頃。
グレンは南通りを離れ、職人たちが軒を連ねる区画を静かに歩いていた。
男爵の屋敷に結界魔術師が雇われたという噂は、すでに街の裏側を通じてグレンの耳にも届いている。
魔法は強い。
常人がどれほど剣を鍛えようと、発動した魔法を正面から打ち破ることは極めて困難だ。ましてや、屋敷全体を覆うような大規模な結界魔法となれば、正面から挑むのは愚策でしかない。
だからこそ、グレンは結界そのものとは戦わない。
魔法を発動させない、あるいは機能不全に陥らせるのが彼の流儀だ。
「……すまない。少し聞きたいんだが」
グレンは路地裏にある、石材や建築資材を扱う石工の作業場に足を踏み入れた。
「ん? なんだい、あんたは」
「……最近、細かい白亜の粉を大量に買っていった客はいないか」
石工の親方は少し首をひねり、思い出したように手を打った。
「ああ、そういえば男爵様のお屋敷から使いの者が来て、樽で三つほど買っていったな。庭の修繕に使うとか言っていたが……」
グレンは短く礼を言い、次に油売り、そして染料屋へと足を運んだ。
油売りからは、燃焼を安定させるための特殊な『精製油』が。染料屋からは、魔力を通しやすい鉱石をすり潰した『ラピス染料』が、それぞれ男爵邸に大量に納品されていた事実を掴む。
白亜の粉、精製油、そして鉱石の染料。
それはすべて、大規模な魔法陣の『線を引くための素材』だった。
(……なるほど。屋敷の床に直接、魔法陣を書き込んでいるな)
強力な結界を維持するためには、触媒を混ぜた染料で正確な魔法陣の線を引く必要がある。
グレンは、雑貨屋として培った「誰が、何を、どれだけ買ったか」という流通の知識から、敵の魔法の構造を完全に丸裸にしていた。
*
「おい、親父。男爵様からのお達しだ」
グレンが最後に訪れた染料屋の裏口で、低い怒声が響いた。
染料屋の主人が、柄の悪い数人の男たちに壁際に追い詰められている。
男たちは衛兵ではない。ヴェイン男爵が裏の汚れ仕事を任せている、街のチンピラやゴロツキの類だった。
「ラピス染料を男爵邸に納品したことは、絶対に誰にも口外するな。もし少しでも外に漏らせば、あんたの店がどうなるか……分かってるな?」
「ひっ……わ、分かっている! 誰にも言わない、だから命だけは……!」
男の一人が、脅すように抜き身の短剣を主人の鼻先に突きつける。
上品な顔をして街の発展を語る男爵だが、その裏ではこうして薄汚い下請けを使い、証人の口封じや脅迫を平然と行っているのだ。
「よし、分かればいい。これからも大人しく――」
男が短剣を引っ込めようとした、その瞬間。
「……随分と、安い口止めだな」
裏口の暗がりから、静かな声が響いた。
無精髭にエプロン姿のグレンが、いつの間にか男たちの背後に立っていた。
「あ? なんだてめえは!」
「誰かに聞かれたか!? おい、こいつもやっちまえ!」
男たちが慌てて短剣を構え、グレンに向かって飛びかかってきた。
グレンは動じない。
彼のすぐ横には、染料屋が作業で使うための、巨大な木樽がいくつも並んでいた。中には、鮮やかな青色や赤色の染料がたっぷりと満たされている。
先頭の男が、殺意を剥き出しにして短剣を突き出してくる。
グレンはその刺突を最小限の動きで避けると、男の突き出した腕の勢いをそのまま利用し、手首を掴んで軽く前へと引き込んだ。
「うおっ!?」
完全に前のめりに体勢を崩した男の足元へ、グレンは革靴の爪先で、床に転がっていた『染料の撹拌棒』を滑り込ませた。
「あびゃっ!」
男の足が撹拌棒に乗り上げ、無様に宙を舞う。
そして、その顔面から、すぐ横にあった巨大な青い染料の樽の中へと一直線に突っ込んでいった。
バッシャァァン!!
派手な水音と共に、男の上半身が真っ青な染料の海に沈み込む。
「ごぼっ!? ぶはっ、目、目がァッ!」
男が慌てて樽から顔を出すと、その顔から衣服に至るまで、全身が鮮やかな真っ青に染まり上がっていた。
滑稽な姿でむせ返る男を見て、残りのチンピラたちは一瞬、呆気にとられて動きを止めた。
その一瞬の隙を、グレンが見逃すはずがない。
「……」
グレンは無言のまま距離を詰め、二番目の男の顎を掌底で的確に打ち抜いた。
脳を揺らされた男が白目を剥いて崩れ落ちる。
「ひ、ひぃぃっ!」
最後に残った青染めの男は、仲間が一瞬で沈められたのを見て完全に戦意を喪失した。
彼は真っ青な顔から青い染料をポタポタと滴らせながら、狂ったように悲鳴を上げて裏通りへと逃げ出していった。
「うわああああっ! 化け物だァッ!」
真っ青に染まった男が白昼の通りを駆け抜けていく。
当然、街の人々の目はその奇妙な姿に釘付けになった。
「なんだあいつ! 全身真っ青じゃないか!」
「あれ、男爵様が出入りさせてる下請けのゴロツキだろ? 一体何をやらかしたんだ?」
洗っても一ヶ月は落ちない強烈な染料。
男は自らが男爵の手先であることを、これ以上ないほど派手な形で街中に宣伝しながら走り去っていった。
上品な仮面を被った貴族の、裏の汚い手口が、街人たちの冷笑の的として白日の下に晒された瞬間だった。
小悪党の処理を終え、グレンは腰を抜かしている染料屋の主人に短く一瞥をくれた。
「……怪我はないな」
「は、はい……助かりました。ありがとうございます……」
「……」
グレンはそれ以上何も言わず、路地裏の影へと溶け込むように姿を消した。
*
《からすの止まり木》への帰り道。
グレンは頭の中で、石工、油売り、染料屋から得た情報を組み立てていた。
大規模な結界魔法陣。それを構成する触媒の性質。
結界魔術師は、己の魔法陣を絶対のものと信じているだろう。
美しい幾何学模様。正確な魔力の流れ。
だが、その完璧な設計図こそが、最大の弱点となる。
魔法は強い。だが、発動条件が崩れれば、ただの絵に過ぎない。
「……線を引く魔法なら」
グレンは、古びたエプロンのポケットの中で、小さな小袋の手触りを確かめた。
「……線を汚せばいい」
王都最恐の元処刑人は、静かに、そして確実に、貴族の館を陥落させるための『処刑台』の準備を整えていた。




