第18話 薬屋の夜襲
夜が更け、辺境都市ラステルは深い静寂に包み込まれていた。
南通りから少し外れた路地にある『セラの薬屋』では、窓から漏れるランプの薄明かりだけが、周囲の暗闇をわずかに照らし出していた。
店内のカウンターの奥で、セラは一人、分厚い帳簿と古びた革装丁の手記を机に広げていた。
亡き夫が残した診療記録と、店の薬草の仕入れ状況を照らし合わせる作業。ヴェイン男爵の私兵が強引な立ち退きを迫ってきてから、彼女は不安で夜も眠れなくなっていた。
「……男爵様は、欲しい土地を必ず手に入れる、か」
昼間の使者の捨て台詞が、耳の奥にこびりついて離れない。
夫の命を奪った帝国産の毒。その流通の証拠となるこの手記を、彼らが力ずくで奪いに来る可能性は十分に考えられた。
その時だった。
カチャリ、と。
固く施錠していたはずの入り口のドアから、異質な金属音が響いた。
セラがハッと顔を上げた瞬間、木製のドアが乱暴に蹴り破られ、黒い布で顔を隠した数人の男たちが雪崩れ込んできた。
彼らの手には、鈍く光る短剣や棍棒が握られている。ヴェイン男爵が差し向けた、裏の仕事を請け負う私兵たちだ。
「なっ……! あなたたち!」
「見つけたぞ。あの女が持っている書類だ、奪い取れ!」
男たちが土足で店内に踏み込んでくる。
セラは咄嗟に夫の手記と帳簿を胸に抱え込み、店の奥へと逃れようとした。
だが、屈強な男たちの動きの方が早い。
「大人しく渡しな、後家さんよォ!」
「きゃあっ!」
先頭の男に乱暴に腕を掴まれ、セラは床に押し倒された。
衝撃でランプが揺れ、彼女の腕から帳簿が滑り落ちそうになる。セラは必死にそれにしがみついた。
「離して! これは、夫の……っ!」
「往生際が悪い女だ。少し痛い目を見ないと分からないようだな!」
男が苛立たしげに短剣の柄を振り上げ、セラの顔面に向けて打ち下ろそうとした。
セラが恐怖に目を閉じた、その刹那。
「……夜分に、随分と騒々しいな」
店の奥、薬草の保管庫へと続く裏口の暗がりから、極めて静かで、感情の欠落した低い声が響いた。
振り下ろされようとしていた男の腕が、ピタリと止まる。
男たちが一斉に声のした方へ視線を向けると、そこには、無精髭に古びたエプロン姿の男――雑貨屋のグレンが、半分閉じたような目で彼らを見据えていた。
「て、てめえ……昼間の雑貨屋か! なぜこんなところに!」
「……仕入れのついでだ」
グレンは足音一つ立てずに、男たちとセラの間へと歩み出た。
その手には剣も鈍器もない。丸腰だ。
だが、その身から発せられる底知れぬプレッシャーに、私兵たちは本能的な恐怖を覚えた。
「ちぃっ! 構わん、こいつも一緒に殺せ!」
主犯格らしき男の号令で、三人の私兵が刃物を構えてグレンへと突進する。
グレンは慌てることなく、すぐ横のカウンターの上に置かれていた一つの『ガラス瓶』を手に取った。
中に入っているのは、赤茶色をした細かい粉末。強力な発汗作用と粘膜への刺激を持つ、咳止め用の薬草を極限まで乾燥させてすり潰したものだ。
グレンは親指で蓋を弾き飛ばし、突進してくる男たちの顔面に向けて、その粉末を勢いよく散布した。
「ぐわっ!?」
「目、目がァッ! 痛ぇっ、ゴホッ、ゲホッ!」
強烈な刺激成分を含んだ粉末が空中に舞い、私兵たちの目と鼻、喉の粘膜を容赦なく焼き払う。
彼らは武器を取り落とし、顔をかきむしりながら咳き込んでその場にうずくまった。
「……目を開けるな。失明するぞ」
淡々と告げるグレン。
だが、少し後方にいたため粉末の直撃を免れた残る二人の男が、怒号を上げて横から斬りかかってきた。
グレンはそれも避けない。
彼は足元にあった、火傷の治療に使われる『粘性のある軟膏』がたっぷり詰まった大きな木壺を、革靴の爪先で蹴り砕いた。
ベチャリ、と。
床一面に、油分を大量に含んだ極めて粘り気の強い軟膏がぶちまけられる。
「死ねェッ!」
大きく踏み込んできた男の足裏が、その軟膏の海に触れた。
「あ?」
男の足が床に強力に張り付き、次の瞬間、無理に引き剥がそうとして完全にバランスを崩した。
体勢が崩れ、無防備になった男の膝の関節に向け、グレンの容赦のない蹴りが正確に叩き込まれる。
メキッ!
「ぎゃあああああッ!」
膝を逆方向に砕かれ、男は糸の切れた人形のように床に崩れ落ちた。
「化け物め……っ!」
残った男が、恐怖に顔を引き攣らせながらも、グレンの死角へと回り込もうとする。
グレンは手元にあったランプを掴み、壁一面に並べられた数百の『ガラス瓶の棚』の前へと移動した。
男が短剣を突き出そうとした瞬間、グレンはランプの光をガラス瓶の群れに向けて強くかざした。
キラキラと、無数の光の屈折が店内に乱反射する。
暗闇に慣れていた男の視覚は、複雑に反射する光の残像によって完全に狂わされた。
「そこだッ!」
男がグレンの残像に向かって刃を突き立てる。
だが、空を切っただけだった。
完全に体勢を崩した男の背後。本当の死角から、グレンの手刀が男の首筋の急所へと音もなく振り下ろされた。
ドスッ、という短い打撃音。
男の意識が完全に刈り取られ、崩れ落ちた。
たった数分の間に、五人の武装した私兵が、ただの『薬屋の道具』によって完全に無力化されていた。
「ひっ……!」
入り口付近でただ一人無事だった男――全体の指揮を執っていた主犯格が、ガタガタと震えながら後ずさる。
彼は、自分たちが手を出してはいけない絶対的な死神の尾を踏んだことを悟り、腰を抜かしかけながらも、狂ったように店を飛び出して夜の闇へと逃げ去っていった。
グレンは深追いをしない。
彼は倒れた男たちの手足を、持参していた丈夫な麻縄で手早く、そして確実に縛り上げていった。
「……怪我はないか、セラ」
「は、はい……グレンさんのおかげです。……本当に、何とお礼を言えばいいか……」
セラは床にへたり込んだまま、夫の手記を胸に抱きしめ、安堵の涙をこぼした。
グレンは縛り上げた襲撃犯たちを見下ろし、小さく息を吐く。
彼らが男爵の指示で動いていたことは明白だ。これで数名を確保できた。
だが、グレンの視線は、開け放たれたドアの足元で止まった。
そこには、先ほど逃げ出した主犯格の男が、慌てて逃走した際に衣服のポケットから落としていったと思われる、一枚の折り畳まれた紙片が落ちていた。
グレンがそれを拾い上げ、ランプの光に透かして見る。
「これは……」
半分閉じた眠そうな目が、わずかに鋭く細められた。
そこには、王国の標準的な文字ではなく、複雑な図形を組み合わせた暗号が記されている。
グレンには見覚えがあった。かつて王都の暗部で、数え切れないほどの密偵を処刑してきた彼には、それが何であるかが一目で分かった。
それは、単なる貴族の私兵が持ち歩くようなものではない。
ガルディア帝国軍の諜報部隊が使用する、正式な『帝国式の暗号紙』だった。
ヴェイン男爵の裏にある闇は、辺境の薬草利権どころの騒ぎではない。
国家を揺るがすほどの巨大な敵国の影が、確実にこの街の奥深くまで入り込んでいる。
グレンは暗号紙をエプロンのポケットにしまい、夜の深い闇を静かに見つめた。




