第17話 孤児院の土地
ラステルの南通りから少し離れた、古びた孤児院の跡地。
かつては街の有志によって運営されていたが、資金難により閉鎖され、今では半ば廃墟のような状態になっている。
だが、赤鼠商会から解放された孤児たちにとって、雨風をしのげるこの場所は、何よりも大切な「家」だった。
「ほら、そこ。また文字が間違ってるわよ。ここは跳ねるんじゃなくて、止めるの」
日差しが差し込む中庭で、リナが子どもたちに読み書きを教えていた。
彼女自身も貴族家で使用人をしていた頃に隠れて文字を覚えた身だが、だからこそ、読み書きの知識がどれほど身を助けるかを知っている。
「うへえ、文字なんて書けなくても生きていけるよ」
「だめ。字が読めないと、悪い大人に騙されて変な契約書にサインさせられちゃうからね」
リナが厳しく指導する横で、ノアも子どもたちに混じって不器用に木炭を握りしめていた。
彼はスリとして生きてきたため、指先の器用さには自信があったが、字を書くとなると勝手が違うらしい。
「くそっ、なんでこんな線が曲がるんだよ……。俺、スリの才能なら誰にも負けねえのに」
「ノア君、スリの才能なんて自慢しないで。ほら、木炭の持ち方が力みすぎなのよ」
リナが苦笑いしながらノアの手元を直してやっていると、不意に、孤児院の錆びた鉄門が乱暴に蹴り開けられた。
「おい、いつまでこんな薄汚い場所で油を売っている! さっさと荷物をまとめろ!」
中庭に踏み込んできたのは、数名の武装した私兵たちだった。
彼らの胸元には、ヴェイン男爵家の紋章が刺繍されている。
「お前たちは……!」
ノアが咄嗟にリナと子どもたちを背中に庇う。
私兵の一人は、怯える子どもたちを一瞥し、忌々しげに鼻を鳴らした。
「我が主、ヴェイン男爵様は、この土地を買い上げ、新たな商業施設を建設することを決定された。お前たちのような浮浪児どもがいつまでも居座っていい場所ではない。直ちに立ち退け!」
私兵は一枚の丸められた羊皮紙――測量図が描かれた権利書らしきものを振りかざして怒鳴り散らす。
彼らの後ろには、強引に荷物を運び出すための荷車と、土地の境界線を示すための真新しい測量杭を積んだ馬具が控えていた。
「そんな……。ここは、商会から解放されたあの子たちが、やっと見つけた居場所なのに……!」
リナが抗議しようと身を乗り出すが、私兵は冷酷な目で彼女を見下ろした。
「知ったことか。男爵様は正式な手続きを踏んでおられる。逆らうというなら、実力で排除するまでだ。おい、お前ら! ガキどもを叩き出せ!」
私兵たちが剣の柄に手をかけ、一歩踏み出した。
子どもたちが恐怖に悲鳴を上げ、ノアが必死に立ち塞がろうとした、その時。
「……随分と、急な話だな」
静かな声と共に、私兵たちの背後から一つの影が歩み出た。
無精髭にエプロン姿の男。雑貨屋《からすの止まり木》の店主、グレンだ。
「店主さん!」
リナとノアの顔がパッと明るくなる。
私兵たちは振り返り、現れた男を怪訝そうに見つめた。
「あ? なんだてめえは。ここは男爵様の土地だ、部外者は引っ込んでいろ!」
「……本当に、男爵の土地なのか」
グレンは私兵の怒鳴り声を完全に無視し、半分閉じたような眠そうな目で、私兵たちが持ち込んだ『馬具』『荷車』そして『測量杭』を順番に観察していった。
「なんだと? ここに正式な測量図と権利書があるのが見えねえのか!」
私兵が羊皮紙をグレンの目の前に突きつける。
グレンはそれに一瞥をくれただけで、再び静かに口を開いた。
「……測量図の日付は昨日だ。だが、お前たちが乗ってきた馬車の車輪には、赤土ではなく黒い泥がこびりついている。これは、街の北側、採石場近くの泥だ」
グレンはさらに、荷車に積まれた測量杭を指差す。
「そして、その測量杭。先端に巻かれた赤い目印の布は、うちの店で三日前に、お前たちの仲間が『境界線の引き直し用』として買っていったものだ」
グレンの指摘に、私兵たちの顔が微かに引き攣った。
「……三日前に買った杭に、昨日の日付の測量図。しかも、お前たちの馬車は、男爵邸のある南側ではなく、北側の採石場方面から直接ここに来ている。……つまり、正式な測量など行われていない」
グレンが語るのは、高度な魔法の知識でも、法律の専門知識でもない。
ただ、自分が売った商品の行方と、街の地理、そして馬車の汚れから導き出される、雑貨屋としての『当たり前の観察眼』だった。
「お前たち、男爵の威光を傘に着て、適当な測量図をでっち上げ、この土地を不当に強奪しようとしているな」
「な、何を馬鹿な……!」
「なら、今すぐ商人組合の測量士を呼んで、この場で図面と実際の土地の縮尺を照らし合わせてみるか」
グレンが一歩踏み出す。
その静かな、しかし絶対的な重圧に、私兵たちはたまらず後ずさった。
もし本当に組合の測量士を呼ばれれば、彼らが適当にでっち上げた偽の測量図であることが完全に露見してしまう。
「ちっ……! 今日はこのくらいにしておいてやる! だが、この土地は必ず男爵様のものになるぞ!」
私兵たちは捨て台詞を吐き、荷車を引きずって逃げるように孤児院の跡地から立ち去っていった。
遠巻きに様子を見ていた街人たちから、私兵の無様な逃走に小さな安堵の息が漏れる。
「店主さん、ありがとうございます……!」
「すげえや、店主さん! あいつら、ぐうの音も出なかったぜ!」
リナとノア、そして子どもたちがグレンの周りに集まり、口々に感謝の言葉を述べる。
グレンは無言のまま、子どもたちの頭を軽く撫でた。
彼らを退けたのは、剣でも魔法でもない。ただの観察と事実の指摘だ。
だが、その程度のことで引き下がるような相手ではないことは、グレン自身が一番よく分かっていた。
*
その頃。
南通りの外れにある、ヴェイン男爵の広大な屋敷。
「……何? 孤児院の立ち退きに失敗しただと?」
執務室の豪奢な椅子に深く腰掛けたヴェイン男爵は、冷たい声で報告にきた私兵の頭を小突いた。
「申し訳ありません、男爵様。南通りの雑貨屋の親父がしゃしゃり出てきて、測量図の偽造を看破しやがりまして……」
「また、あの雑貨屋か」
男爵は忌々しげに舌打ちをした。
薬草利権を奪うための薬屋の買収も、帝国の密輸経路を確保するための孤児院の強奪も、すべてあの薄汚い雑貨屋の男に阻まれている。
「……やはり、下層の人間には言葉が通じないらしい。少しでも知恵をつけると、自分たちが貴族と対等だと勘違いする」
男爵の口元に、極めて冷酷で、人間性を欠落させた笑みが浮かんだ。
「よいだろう。ならば、まずはあの目障りな薬師の女を先に折る。孤児どもを散らすのはその後で構わん」
男爵の悪意は、再びセラの薬屋へとその矛先を定めていた。




