第16話 毒は薬の顔をしている
ヴェイン男爵の使者が乱暴にドアを閉めて立ち去り、セラの薬屋には再び重苦しい静寂が降りていた。
カウンターの上には、青い封蝋が押された無慈悲な土地売却の命令書が残されている。
その横で、セラは古びた一冊の革装丁の手記を、震える手で開いていた。
それは、数年前に亡くなった彼女の夫が残した、最後の診療記録だった。
「……私の夫は、この街で医者をしていました。貧しい人たちからも慕われる、本当に優しい人でした」
セラは手記のページを撫でながら、ぽつりと語り始めた。
グレンは無言のまま、少し離れた場所で彼女の言葉に耳を傾けている。
「夫が亡くなる数ヶ月前のことです。南通りの貧民街で、奇妙な症状を訴える患者が急増しました。最初はただの風邪や疲労だと思われていたんですが……徐々に内臓を壊し、衰弱していくんです。夫は、彼らが共通して飲んでいた『ある安価な薬』に疑いを持ちました」
セラがめくったページの最後に、一枚の緻密なスケッチが残されていた。
それは、小さな薬瓶の絵だった。
そしてその瓶のラベルには、先ほどヴェイン男爵の私兵が身につけていたものと全く同じ、男爵家の紋章が描かれている。
「夫は、その薬が王国で作られたものではなく、帝国から流れてきた遅効性の『毒』ではないかと疑っていました。……薬の顔をした、毒薬だと」
彼女の声が微かに震える。
「夫は、その流通経路を突き止めるために街の商館へ向かいました。……そしてその帰り道、荷馬車に轢かれて、帰らぬ人となりました。衛兵隊は、ただの不幸な事故として処理しました」
セラの目から、一滴の涙が手記のページにこぼれ落ちた。
愛する夫の死が、ただの事故ではなかったという確信。
そして、その原因を作った男が、今度は自分たちから居場所を奪おうとしている。その理不尽な事実に、彼女は唇を噛み締めた。
「……見せてみろ」
グレンは静かに歩み寄ると、セラの夫が残した手記と、当時回収されたという空の薬瓶を手に取った。
グレンは薬瓶の蓋を開け、鼻を近づけて微かに残る匂いを嗅ぐ。
さらに、手記に記された薬草の仕入れ産地と、流通の経由地の記述を、半分閉じたような目で素早く追っていった。
「……この瓶の匂い。防腐処理に使われているのは、王国の白灰じゃない」
グレンは薬瓶をカウンターに置き、淡々と事実だけを告げた。
「帝国の軍用品に使われる、特有の油の匂いが混ざっている。手記にある『東の森産』という産地偽装も杜撰だ。東の森の土壌で育った薬草なら、こんな湿った匂いはしない」
グレンが語るのは、高度な魔法分析でも専門的な毒物鑑定でもない。
ただ、日々さまざまな商品を仕入れ、香りや手触りで品質を見極めている『雑貨屋』としての当たり前の取引知識だった。
「……流通経路は完全に偽装されている。男爵は数年前から、薬草に見せかけた帝国の毒をこの街に流していたんだろう」
ヴェイン男爵は、ただの強欲な貴族ではない。
意図的に街に毒を撒き、弱者を蝕み、その背後で帝国と深く通じている悪党だ。
「……少し、出てくる」
グレンはそれだけ言い残し、セラの薬屋を後にした。
*
南通りの市場の端。
衛兵隊の不当な封鎖が解かれ、少しずつ活気を取り戻し始めた路地裏で、一人の男が声を張り上げていた。
「さあさあ、そこのお加減の悪そうな奥さん! こいつは王都から特別に仕入れた特効薬だよ! 少し値は張るが、飲めばどんな疲れも一発で吹き飛ぶ魔法の薬さ!」
粗末な身なりの男が、木箱の上に並べた小さな薬袋を売り捌いていた。
その周囲には、日々の過酷な労働や、衛兵の圧政による心労で体調を崩した貧しい街人たちが群がっている。
「本当かい? ここのところ、ずっと胸のあたりが苦しくてね……」
「一つ、私にもおくれよ。少しでも楽になるなら……」
藁にもすがる思いで、なけなしの銅貨を差し出す人々。
薬売りの男は下卑た笑いを隠しながら、その金を受け取ろうと手を伸ばした。
その時。
男の手首を、無精髭にエプロン姿の男――グレンが静かに掴んだ。
「あ? なんだてめえは。客じゃないなら引っ込んで――」
「……偽物だ」
グレンは男の手首を掴んだまま、木箱の上にあった薬袋をもう片方の手で拾い上げた。
「な、何だと!? 言いがかりをつける気か!」
「薬師組合の正規品なら、袋の紐の結び目は『双葉結び』だ。これはただの固結びになっている。素人の内職だ」
グレンは無表情のまま、薬袋を男の目の前に突きつけた。
「それに、封に使われている蝋だ。本物なら防湿のために蜜蝋を混ぜるが、これには安い赤土が混ぜられている。色がくすみ、割れ方が脆い」
生活用品を扱い、毎日荷札や封蝋を見ている雑貨屋の目を誤魔化すことなど、不可能だった。
「こいつは薬じゃない。ただの雑草の粉末に、興奮作用のある粗悪な薬物を混ぜただけの代物だ」
グレンの指摘に、集まっていた街人たちがざわめき始める。
「に、偽物……?」
「俺たちの金を騙し取ろうとしたのか!」
周囲の空気が一変したのを感じ、薬売りの男は顔を引き攣らせた。
「チッ、うるせえんだよ! 商売の邪魔をするな!」
男は逆上し、懐から護身用のナイフを抜き放ってグレンの腹へと突き出そうとした。
だが、グレンは避けない。
彼は男の手首を掴んだまま、持っていた『偽薬の袋の紐』を、男のナイフを握った手の親指に素早く巻き付けた。
そして、そのまま強烈な力で紐を反り返らせる。
「痛ッ!!」
親指の関節を逆方向に極められ、男はたまらずナイフを落とした。
グレンはそのまま男の腕を捻り上げ、木箱の上へ乱暴に押さえつける。
「あだだだっ! 折れる、指が折れる!」
「……金を返せ。今すぐだ」
グレンのひどく冷たく、静かな声が男の耳元に落ちる。
男は恐怖にガタガタと震えながら、先ほど受け取ったばかりの銅貨を放り出し、集まっていた街人たちへと返却した。
「全額返した! 返したから離してくれ!」
男が半泣きで叫ぶと、グレンはゆっくりと手を離した。
騙されかけた街人たちは、お金を取り戻して安堵の息を吐き、足早にその場から離れていく。
路地裏に取り残されたのは、指を押さえてうずくまる小悪党と、それを見下ろすグレンだけになった。
「……どこから仕入れた」
グレンの問いかけに、男は怯えた目で後ずさりながら、必死に命乞いをするように口を開いた。
「お、俺はただ言われた通りに売ってただけだ! 品物は定期的に裏の倉庫に運ばれてくるんだよ!」
「誰に言われた」
「し、知らない! 本当だ! でも、元締めの奴らが笑って話してるのを聞いたんだ!」
男は震える声で、この街を覆う巨大な悪意の一端を吐き出した。
「薬草畑が手に入れば、本物も偽物も関係なくなるって……男爵様が」
その言葉を聞き、グレンの目が静かに、そして鋭く細められた。
ヴェイン男爵。
セラの夫を殺し、街に毒を流し、そして今度は孤児たちの居場所まで奪おうとしている男。
彼がこの街に仕掛けた罠の全貌が、少しずつ、だが確実にその輪郭を現し始めていた。




