第15話 紳士の顔をした悪党
セラの薬屋の前に、一台の豪奢な馬車が静かに停まった。
辺境都市の南通りにはおよそ似つかわしくない、磨き上げられた黒塗りの車体。
御者に扉を開けられ、一人の男が石畳に降り立つ。
上質な生地の外套を羽織り、銀色の装飾が施された杖を手にした、初老の紳士。
辺境の薬草利権を買い漁り、急激に勢力を拡大している新興貴族、マルクス・ヴェイン男爵であった。
彼は足元の泥を嫌悪するように一瞥すると、静かな足取りで薬屋のドアを開けた。
「……失礼するよ。商談の返事を聞きに来たのだが」
店内に足を踏み入れたヴェイン男爵の顔には、極めて穏やかで礼儀正しい微笑みが浮かんでいた。
先日の使者のような、粗野な怒鳴り声や威圧感は一切ない。
だが、その瞳の奥には、目の前にいる人間を自分と同じ『生命』として見ていない、絶対的な冷酷さが潜んでいた。
「男爵様……」
カウンターの奥で、セラが血の気を失った顔で立ち上がる。
店内には、先日使者の男の指を潰して追い返したグレンも留まっていた。そして、グレンの足元には、お使いで一緒に来ていたノアが、警戒心を剥き出しにして男爵を睨みつけている。
「先日の使者は随分と無礼を働いたようで、申し訳なかった。彼にはすでに暇を出してある」
ヴェイン男爵は手袋を外しながら、ゆったりとした口調で語りかけた。
「だが、私の提案自体は変わらない。この薬屋と、隣接する孤児院の跡地。あの一帯の土地をすべて私に譲っていただきたい」
「……お断りします。ここは亡き夫の店です。それに、孤児院の跡地には、身寄りのない子どもたちが身を寄せているんです。あの子たちから居場所を奪うようなことには同意できません」
セラが毅然と答えると、ヴェイン男爵は心底不思議そうな顔をして、小さく首を傾げた。
「身寄りのない子ども? ああ……あの、路地裏に生える雑草のことか」
男爵の口から紡がれたのは、あまりにも人間味の欠落した言葉だった。
「セラ殿。人間には二種類ある。価値を生み出す者と、ただ土の養分を吸い上げるだけの雑草だ。貧民や孤児、そして夫を亡くして細々と赤字を垂れ流す未亡人。……彼らはただの壊れた道具であり、処理されるべき不良債権に過ぎない」
男爵は怒っていない。本心から、心底そう信じているのだ。
「あの土地を更地にし、新たな商業施設を建てる。それがこの街の発展に繋がる。役に立たない道具には、退場していただくのが自然の摂理というものだろう?」
表向きは商業施設と言っているが、実際には帝国への薬草密輸を拡大するための大規模な中継倉庫を建設する計画である。
彼にとって、そこに住む弱者たちの生活など、路上の石ころ以下の価値もなかった。
「……ふざけるな!」
我慢しきれず、ノアが男爵の前に飛び出した。
「セラさんも、孤児院のみんなも、雑草なんかじゃない! あんたみたいな奴に、この店は絶対に渡さないぞ!」
ノアが声を荒らげた瞬間、男爵の背後に控えていた大柄な護衛の男が、静かに前に出た。
鍛え上げられた巨体。その目には、薄汚い孤児への明確な侮蔑と殺意が宿っていた。
「当主様に無礼だぞ、野良犬が」
護衛の男が、ノアの細い身体を吹き飛ばそうと、丸太のような豪腕を振りかぶり、力強く一歩を踏み込んだ。
だが、男の腕がノアに届くことはなかった。
「……」
カウンターの横に立っていたグレンの右手が、微かに動いた。
彼の手には、先ほど薬草の計量に使っていた真鍮製の重い『秤の分銅』が握られている。
グレンは、踏み込んできた護衛の足元――その体重が完全に乗った『足の甲』の急所に向けて、握り込んでいた分銅を音もなく、正確無比な角度で振り下ろした。
ゴシャッ!!
「あぎゃっ!?」
分銅の硬質な重みと、グレンの静かな一撃が、護衛の革靴を貫通し、足の甲の細かな骨を完全に粉砕した。
激痛に脳を揺らされ、大柄な護衛はノアに触れることすらできず、情けない悲鳴を上げてその場に両膝をついた。
「……足元が見えていないな」
グレンは分銅を片手に持ったまま、床でうずくまる護衛を冷たく見下ろした。
怒鳴ることも、過剰に痛めつけることもない。ただ、相手の最も力が入る起点を、暴力が発動する前に淡々と潰しただけだ。
「……貴様」
自分の護衛が一瞬で膝をつかされたのを見て、ヴェイン男爵は初めて僅かに眉をひそめた。
彼はグレンを一瞥し、忌々しげに鼻を鳴らす。
「南通りの雑貨屋か。……底辺の商人風情が、貴族の交渉に首を突っ込むとはな。やはり、この界隈の人間は教育がなっていない」
男爵はグレンの底知れぬ実力に気づくことはなかった。彼にとって、グレンはあくまで「少し腕の立つ、南通りの粗野な雑貨屋」という認識の枠を出ない。
「よいだろう。野蛮な真似をしてまで拒むというのなら、こちらも相応の『公的な手続き』を進めさせてもらう。この土地の権利が誰にあるか、組合と法が教えてくれるはずだ」
ヴェイン男爵は倒れた護衛を冷たく見捨て、優雅な身のこなしで踵を返した。
怒声一つ上げず、ただ冷酷な宣告だけを残して、彼は薬屋を立ち去っていった。
*
男爵の馬車が去り、痛みにうめく護衛が逃げるように店を出て行った後。
「……大丈夫か、ノア」
「う、うん。平気だよ、店主さん。ありがとう……」
ノアは少し震えながらも、グレンを見上げて安堵の息を吐いた。
一方、カウンターの奥にいたセラは、青ざめた顔のまま、店の奥の引き出しを開けていた。
彼女の手には、先ほどのヴェイン男爵の胸元にあったものと同じ『紋章』が描かれた、古い一枚の羊皮紙が握られている。
「セラさん……? どうしたの?」
ノアが不思議そうに尋ねるが、セラは答えない。
彼女は震える手で、その羊皮紙――亡き夫が残した、古い診療記録の束をめくっていた。
夫は数年前、辺境に出回る帝国産の出所不明な毒薬について調べていた最中、不審な事故で命を落とした。
その夫の手記の最後のページ。
そこには、流通していた毒薬の小瓶のスケッチが残されている。
「……間違いないわ」
セラの唇から、かすかな声が漏れた。
夫が調べ、そして彼の命を奪う原因となったであろうその薬瓶のスケッチ。
そこに描かれていたのは、まぎれもなく、先ほどヴェイン男爵の服に刺繍されていたのと同じ、男爵家の紋章であった。
礼儀正しい紳士の顔の裏に隠された、底知れぬ悪意。
街を蝕む毒の出処が、今、静かにその姿を現そうとしていた。




