第14話 薬師の未亡人
辺境都市ラステルの南通りから、細い路地を一本入った静かな場所に、その店はあった。
建物の前には、薬草の独特な、しかしどこか心を落ち着かせる香りが漂っている。
古びた木製の看板には『セラの薬屋』と控えめな文字が刻まれていた。
「セラさん、本当にすまねえ。代金は、次の仕事の給金が入ったら必ず……」
店内で頭を下げているのは、衣服のすり切れた初老の労働者だった。
彼は咳き込みながら、カウンター越しに薬の包みを受け取っていた。
「気にしないでください。お代は、働けるようになってからで結構ですから。今はとにかく、体を休めることを優先してくださいね」
薬師のセラは、穏やかな微笑みを浮かべて労働者を見送った。
三十二歳になる彼女は、数年前に同じく薬師であった夫を亡くし、未亡人となってからも一人でこの小さな薬屋を守り続けている。
貧しい患者にもツケで薬を分け与える彼女の店は、街の弱者たちにとって無くてはならない場所だった。
だが、当然ながらその経営は常に火の車であり、決して楽なものではない。
カラン、と控えめなドアベルの音が鳴り、新たな来客を告げた。
「……裏の薬草園で頼まれていた、乾燥カミツレと月見草だ。納品に来た」
無精髭に眠そうな目をした、エプロン姿の男。
雑貨屋《からすの止まり木》の店主、グレンだった。
彼は背負っていた大きな麻袋を、ドサリと床に下ろした。
「ありがとうございます、グレンさん。いつも質の良い薬草を安く仕入れていただいて、助かっています」
「……たまたま、安く入っただけだ」
グレンは短く答え、カウンターに納品書を置いた。
セラは薬草の検品を終えると、奥から温かい湯気の立つ木製のカップを二つ持ってきた。
独自の配合で煮出した、特製の薬草茶だ。
「少し休んでいってください。外は冷えますから」
グレンは無言でカップを受け取り、一口すする。
「……苦いな」
「ええ。ですが、疲れた体にはその苦さが必要なんですよ」
二人の間の会話は、常に静かで、落ち着いたものだった。
セラはカップを持つグレンの手を、静かな瞳で見つめた。
グレンの手には、無数の小さな傷跡がある。
特に右手の薬指と小指は、関節の動きがわずかに悪く、不自然に固まっているように見えた。
そして何より、手首の奥や首元に微かに覗く、古い縄が擦れたような痕。
亡き夫の手伝いで多くの怪我人を見てきたセラには、それが「ただの雑貨屋」が日常の労働で負うような傷ではないことが、はっきりと分かっていた。
長年、人の命を奪うような過酷な修羅場を潜り抜け、血に塗れてきた人間の手。
だが、セラは決してその過去を詮索しようとはしなかった。
彼がただの雑貨屋として振る舞うなら、自分はただの客として、そして薬師として接するだけだ。
静かな時間が流れていた、その時。
バンッ!
薬屋のドアが乱暴に蹴り開けられ、冷たい風と共に、場違いなほど仕立ての良い服を着た男が入ってきた。
貴族に仕える私兵の身なりだ。男の胸元には、新興貴族であるマルクス・ヴェイン男爵家の紋章が刺繍されていた。
「薬師のセラだな」
男は傲慢な態度で店内に踏み込み、カウンターの前に立つ。
「先日も通達したはずだ。この薬屋と周辺の土地を、当主であるヴェイン男爵様が買い取ると。期日はとうに過ぎているぞ」
「……お断りしたはずです。ここは亡き夫が残してくれた、大切な店です。売るつもりは一切ありません」
セラの声は静かだったが、そこには決して譲らないという強い意志が込められていた。
「ふん。貧民に薬を恵んで、日々のパンを買うのにも苦労しているような未亡人が、貴族の温情を無にするとはな。この土地は、男爵様が新たな商業施設を建てるために必要なのだ」
男爵の真の目的が、帝国向けの薬草密輸の中継地としてこの場所を利用することであることを、セラはまだ知らない。
だが、相手がどのような権力を振りかざそうと、彼女が首を縦に振ることはなかった。
「お引き取りください。何度来られても、答えは同じです」
セラの毅然とした拒絶に、使者の男は顔を赤くして激昂した。
「身の程を知れ、平民の分際で! ならば、その商売道具ごと後悔させてやる!」
男は乱暴に手を伸ばし、カウンターの奥にある、天井まで届きそうな巨大な『薬棚』の縁を力任せに掴んだ。
棚には、高価な薬草の瓶や、調合済みのガラス瓶が隙間なく並んでいる。これを倒されれば、薬屋としての機能は完全に失われてしまう。
「やめて!」
セラが悲鳴を上げ、男が棚を引き倒そうと全体重をかけた、その瞬間。
ピタリ、と。
男の動きが、目に見えない壁に衝突したかのように完全に停止した。
「……あ?」
男が間抜けな声を漏らす。
見れば、いつの間にかカウンターの横に移動していた無精髭の男――グレンが、薬棚の側面を左手一本で静かに支えていた。
グレンは顔色一つ変えず、巨大な薬棚の傾きを完全に相殺している。
並べられた何百というガラス瓶は、微かな音すら立てず、ただの一本も床に落ちることはなかった。
「て、てめえ……! 邪魔をするな!」
使者の男が苛立ち、棚の縁を掴んでいた指にさらに力を込めようとした。
だが、グレンの右手はすでに動いていた。
薬棚には、瓶を保護するための分厚く重い、オーク材の『引き出し』がいくつも備え付けられている。
グレンは、男が掴んでいる棚の縁のすぐ横にあった引き出しを、手のひらで無造作に、しかし極めて正確な角度と力で押し込んだ。
ガンッ!!
「あぎゃあああああああッ!?」
凄まじい絶叫が薬屋に響き渡る。
重いオーク材の引き出しと、棚の分厚い枠の間に、使者の男の右手の指が四本、完全に挟み込まれていた。
「……店の中で暴れるな。瓶が割れる」
グレンは半分閉じた眠そうな目で、指を砕かれて膝から崩れ落ちる男を見下ろした。
手首を折ったり、腕を切り落としたりはしない。ただ、薬棚という『環境』を利用して、相手が暴力を振るう手段だけを最小限の動きで的確に潰したのだ。
「あ、あ、あああ……っ!」
男は脂汗を流し、潰れて紫色に変色した指を庇いながら、這うようにして店の出口へと後ずさった。
ただの雑貨屋の親父だと思っていた男の、一切の感情を排した冷たい視線に、本能的な恐怖を覚えたのだ。
「お、覚えていろよ……!」
男はドアにすがりつき、苦痛に顔を歪めながらも、最後に捨て台詞を吐いた。
「男爵様は、欲しい土地を必ず手に入れる……お前ら、絶対に後悔するぞ!」
使者の男が逃げるように店を飛び出していくと、薬屋には再び静寂が戻った。
棚のガラス瓶は、何事もなかったかのように静かに整列している。
「……怪我はないか」
グレンが何事もなかったかのように引き出しを元の位置に戻し、セラに問いかけた。
「はい……ありがとうございます、グレンさん」
セラは胸を撫で下ろし、静かに頭を下げた。
彼女の目に映るグレンの背中は、やはりただの雑貨屋のそれではなかった。
だが、彼女は何も聞かない。
ただ、冷えかけた薬草茶のカップを、そっと彼の前に置き直すだけだった。




