第23話 薬草茶は苦い
辺境都市ラステルの街外れ。冷たい風が吹き抜ける小高い丘の上に、質素な墓碑が並ぶ共同墓地がある。
冬の薄日が差し込む中、薬師のセラは、その中の一つの墓碑の前に静かに膝をついていた。
数年前に不審な事故で命を落とした、彼女の亡き夫が眠る場所だ。
「……あなた」
セラは、持参した白い花を墓前にそっと供え、目を閉じて両手を合わせた。
「ずっと、あなたの死の理由が分からないまま……ただ、言い知れない恐怖と悲しみの中で毎日を過ごしてきました。でも、ようやく終わりましたよ」
彼女の脳裏に、街の広場で地位と名誉を剥奪され、絶望に顔を歪めていたマルクス・ヴェイン男爵の姿が蘇る。
夫の命を奪い、街に毒を流し続けていた男は、もう二度とこの街で権力を振るうことはできない。
セラは深く息を吐き出し、ゆっくりと目を開けた。
夫の死の真相を知った悲しみは消えない。だが、これまで彼女の心に重くのしかかっていた、見えない鎖のような呪縛は、確かに解け始めていた。
「もう、大丈夫です。私はこれからも、あなたの残してくれたあの店で……生きていきますから」
静かな決意を夫に報告し、セラはゆっくりと立ち上がった。
振り返ると、数十歩離れた枯れ木の下に、一人の男が静かに立っていた。
無精髭に、古びたエプロン姿の雑貨屋。グレン・ガロウズだ。
彼はセラの個人的な時間に踏み入ることはせず、ただ遠くから、彼女の報告が終わるのを無言で見守っていた。
「……お待たせしました、グレンさん」
「……」
グレンは何も言わず、ただ短く頷いて、街へと続く道を歩き始めた。
セラはその後ろ姿を見つめ、静かにその後を追う。
二人の間に多くの言葉は必要なかった。
*
男爵の失脚から数日が過ぎたラステルの街は、かつての活気を取り戻しつつあった。
商人組合と薬師組合が主導となり、男爵が不当に押さえていた利権や土地の凍結作業が進められている。
市場では、商人たちが安堵の表情で日々の商いを行っていた。
「いやあ、あの男爵がまさか裏であんな悪事を働いていたとはな」
「まったくだ。だが、これで少しは街もまともになるだろう」
人々の顔からは、権力に怯える影が消え去っている。
だが、その平穏な空気の中で、奇妙な『空白』が存在していることに気づいている者は少なかった。
男爵という一国の貴族が、これほど大規模な密貿易と不法行為を行い、平民たちの手によって失脚にまで追い込まれたのだ。
本来であれば、王都からただちに監察官や騎士団が派遣され、大規模な調査と正式な処分が下されるのが当然の法の手続きである。
しかし、王都からは何の沙汰も来ない。
書状の一枚すら届かず、完全な沈黙を保っているのだ。
まるで、この辺境の街で起きた貴族の失脚など、最初からどうでもいいと言わんばかりに。
(……王都の法が、正義とは限らない)
街の隅で、噂話を聞き流しながら、グレンは内心でそう呟いた。
彼がかつて身を置いていた王都の中枢。そこは、光り輝く正義の中心などではない。底知れぬ腐敗と、権力者たちの思惑が渦巻く巨大な泥沼だ。
王都が動かないことには、必ず裏がある。
*
その日の午後。
セラの薬屋には、一人の中年女性が訪れていた。
「セラさん……本当に申し訳ないねぇ。男爵の騒ぎで仕事が止まっちまって、うちの亭主も体を壊して……でも、薬代が……」
女性は申し訳なさと恥ずかしさで、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
これまでのセラであれば、迷うことなく「お金は要りません。持っていってください」と、無料で薬を渡していただろう。
それは優しさであると同時に、夫を失った彼女自身の『どうなってもいい』という、自分をすり減らすような諦めと自己犠牲からくるものだった。
だが、今のセラは違った。
彼女は優しく微笑むと、女性の手に丁寧に包んだ薬草を握らせた。
「代金は結構ですよ」
「えっ……でも……」
「その代わり、旦那さんが元気になって、またしっかり『働ける時に返せばいい』わ。急ぎませんから」
セラは、穏やかに、だが未来を見据えた力強い笑顔でそう言った。
女性はポロポロと涙をこぼし、「ありがとう、ありがとう」と何度も頭を下げて店を出ていった。
無料の施しではなく、明日への希望を前提とした貸し。
それは、セラ自身の時間が、夫の死という過去から解放され、再び未来に向かって進み始めた何よりの証拠だった。
「……随分と、逞しくなったな」
店の奥から、薬草の納品に来ていたグレンが静かに姿を現した。
「ふふ、薬師ですから。患者さんには元気になってもらわないと、困りますからね」
セラはカウンターの奥へと戻り、慣れた手つきで湯を沸かし始めた。
乾燥させた薬草をいくつか調合し、木製のカップにお湯を注ぐ。立ち上る独特の香りが、店内に満ちた。
「どうぞ。少し休んでいってください」
カウンター越しに差し出された、湯気を立てる薬草茶。
グレンは半分閉じた目でそれを見つめ、無言でカップを受け取った。
ゆっくりと口に運ぶ。
口内に広がるのは、舌の根が痺れるような、強烈な苦味だった。
「……苦いな」
グレンがわずかに眉をひそめて呟く。
セラは、その反応を予想していたかのように、静かで大人びた微笑みを浮かべた。
「ええ。ですが、その苦さが……今のあなたには必要です」
グレンはそれ以上は何も言わず、再びカップに口をつけた。
戦いの中でしか生きられなかった元処刑人と、悲しい過去を乗り越えた薬師の未亡人。
二人の間には、決して踏み込みすぎない、静かで穏やかな時間が流れていた。
*
夜。
《からすの止まり木》の裏手にある、グレンの狭い私室。
小さなランプの明かりの下で、グレンは一冊の古い手記を開いていた。
それは、セラの亡き夫が残した、帝国産毒薬の流通を調べていた診療記録だった。
男爵が失脚した今、この手記の役目は終わったはずだ。
だが、グレンの目は、その手記の『最後のページ』に釘付けになっていた。
男爵との繋がりを示す記述は、数ページ前で終わっている。
しかし、最後のページには、ただ一つだけ、不気味な印が押されていたのだ。
それは、ガルディア帝国の狼の紋章ではない。
アルヴェン王国の、それも王都の中枢に存在する極秘機関の印。
しかも、その印は意図的に、何か強いインクのようなもので『黒塗り』にされ、隠蔽されていた。
(……灰冠局)
グレンの脳裏に、かつて自分が所属していた王命直属の秘密処刑機関の名前が過ぎる。
なぜ、辺境の街医者の手記の最後に、王都暗部の印が押されているのか。
毒を流していたのは、確かに男爵であり、帝国だった。
だが、その背後にうごめく影は、敵国だけではない。
グレンは手記を静かに閉じ、ランプの火を吹き消した。
暗闇に沈んだ部屋の中で、王都のどす黒い影が、辺境の小さな雑貨屋へと確実に忍び寄ろうとしていた。




