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婚約破棄されたので代筆をやめます。殿下の恋文、全部私が書いていたんですけど  作者: はてなるあてな


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どうか、よい夜を

夜の庭園は、人の気配がなかった。


大広間からは、まだ晩餐会の音楽がかすかに聞こえてくる。式典の失態をごまかすように、楽団がいつもより明るい曲ばかり弾いていた。


噴水の縁に腰を下ろして、ようやく息を吐く。


手が冷えていた。指先を握り合わせても、震えが止まらない。


あの文を、彼は引き出しにしまっていると言った。


私の文を。


でも、彼が大切にしているのは「アルベルト殿下の手紙」だ。書いたのが誰かなんて、彼は知らない。知らないままのほうが、いい。


明日の朝には、私は王都を出る。


伯母様の領地は南の海辺だ。帝国からは、ずっと遠い。


「……帰ろう」


立ち上がり、庭園の小道を戻る。


角を曲がったところで、誰かとぶつかりそうになった。


「失礼――」


顔を上げて、固まった。


銀の髪。夜の湖の色の瞳。


ユリウス皇太子殿下が、そこに立っていた。


「こちらこそ、失礼した。広間が少し騒がしかったので、風に当たりに」


「……さ、左様でございますか」


私は慌てて礼をした。


心臓がうるさい。落ち着け。この人は私を知らない。ただの、伯爵家の娘だ。


「お邪魔をいたしました。それでは、殿下」


もう一度頭を下げて、すれ違う。


そして、いつもの癖で、言ってしまった。


「どうか、よい夜を」


背後で、足音が止まった。


「――見つけた」


振り返ると、ユリウス殿下がこちらを見ていた。


式典の、目の笑っていない微笑みではなかった。


「三年間、すべての手紙の最後に、その一行があった」


彼は、ゆっくりと私に近づいてくる。


「『どうか、よい夜を』。王族の書簡としては、少しくだけすぎている。だが私は、毎回その一行を読むのを楽しみにしていた」


逃げなければ、と思った。


足が、動かなかった。


「……な、何のことでしょう。そのような挨拶は、誰でも」


「二年前の夏、国境の会談でアルベルト殿下にお会いした」


ユリウス殿下は、私の目の前で立ち止まった。


「私が、手紙に書かれていた詩集の話をすると、殿下は『詩? あんなもの、腹の足しにもならん』と笑われた」


ああ。言いそう。


「その時に分かった。私が文を交わしている相手は、この方ではない、と」


「……では、なぜ」


声がかすれた。


「なぜ、そのあとも、手紙を」


「書き手が、読んでくれると思ったからだ」


彼は、少しだけ困ったように笑った。


「宛名はアルベルト殿下でも、封を切って、最初に読むのは本当の書き手だろう。だから、この二年、私はずっと、名前も顔も知らない誰かに向けて書いていた」


頭の中が、真っ白になった。


この二年の、あの手紙たち。


眠れない夜に読む本の話。古い詩集の、好きな一節。最後の一行の、こちらを気づかう言葉。


――あれは、私宛てだったのか。


「……本当に、私だと?」


やっとのことで、それだけ言った。


「人違いかもしれません。挨拶の一行くらい、誰でも」


「では、こちらも一つ」


ユリウス殿下は、少し目を伏せた。


「『眠れない夜は、無理に眠ろうとしないことにしています。夜にしか読めない本というものが、確かにあるので』」


息が止まった。


去年の冬。夜更けまで代筆が終わらなかった日に、つい本音を書いてしまった一文だった。書き直そうとして、締め切りに間に合わず、そのまま送ってしまったもの。


「あの手紙を読んでから、私も夜に本を読むようになった」


彼は、ほんの少しだけ照れたように言った。


「おかげで、帝国の大臣たちには『殿下は最近、朝に弱い』と小言を言われている」


笑いそうになって、うまく笑えなかった。


代わりに、目の奥がじんと熱くなった。


「式典の広間で、あなたを探した」


ユリウス殿下が言った。


「私が『春を待つ力』の一文を口にしたとき、広間で一人だけ、泣きそうな顔をした人がいた。扇で隠していたが」


……見られていた。


「名前を、教えてくれないか」


ユリウス殿下は、まっすぐに私を見た。


「手紙の書き手ではなく、あなた自身の名前を」


私は、唇を開いて、閉じた。


十年間、私が書いた手紙の最後には、いつも別の人の名前があった。


「……クラリス、です。クラリス・ベルモント」


「クラリス」


彼が、その名前をゆっくりと口にした。


確かめるように。大切なものを、両手で受け取るように。


「三年分の礼を、ようやく言える」


彼が、私の右手を取った。


中指のペンだこに、彼の指先が触れる。


「ありがとう。あなたの手紙に、何度も救われた」


その時、庭園の向こうから、足音が近づいてきた。


「――クラリス! そこにいるのか!」


アルベルト殿下の声だった。


◇


「やはり、お前の仕業だったんだな!」


小道に現れたアルベルト殿下は、顔を真っ赤にしていた。後ろには、困り顔の侍従が二人。


「お前が、帝国の皇太子に嘘を吹き込んだんだろう! 俺の手紙を、自分が書いたなどと!」


「アルベルト殿下」


ユリウス殿下が、私の前に半歩出た。


「彼女は何も言っていない。私が、自分で気づいただけだ」


「黙っていてもらおう! これは我が国の問題だ!」


アルベルト殿下は、私を指さした。


その指が、震えていた。


「クラリス・ベルモント。お前を、王太子の名を騙って外交文書を偽造した罪で告発する! 明朝、謁見の間に出頭しろ!」


偽造。


王族の名を騙った外交文書の偽造は、反逆罪に問われる。


侍従たちが、青ざめた顔を見合わせた。


「……承知いたしました」


私は、静かに答えた。


アルベルト殿下が、勝ち誇ったように笑う。


その後ろで、ユリウス殿下が小さくつぶやいたのが聞こえた。


「ちょうどいい。明朝、私も同席させてもらおう」


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