書き出しの一文
翌朝。謁見の間。
玉座には国王陛下。その隣に、王妃様。
左右には主だった大臣たち。そして、帝国の使節として、ユリウス殿下と年配の副使が並んでいた。
部屋の中央に、私は一人で立った。
出がけに、父は何も言わなかった。ただ、玄関で私の右手を一度だけ強く握った。
「では、王太子。申してみよ」
国王陛下の声は、低く、疲れていた。
アルベルト殿下が、一歩前に出る。隣には、なぜかミレイユ様もいた。手提げを胸に抱え、唇を固く結んでいる。
「父上! この女は、十年もの間、俺の名を勝手に使って手紙を書き、帝国との外交をかき乱してまいりました! 昨日の式典で俺が恥をかいたのも、この女が裏で何か仕組んだからに違いありません!」
「……クラリス・ベルモント。申し開きは」
「ございます。ですがその前に、殿下にひとつだけ伺っても?」
国王陛下が、黙ってうなずいた。
私は、アルベルト殿下のほうを向いた。
「殿下が、帝国のユリウス皇太子殿下へ最後にお出しになったお手紙。その書き出しの一文を、教えてくださいませ」
「は?」
「ご自分でお書きになったのなら、覚えていらっしゃるはずです。ひと月前のお手紙ですので」
アルベルト殿下の目が泳いだ。
「そ、そんなもの……『拝啓』だ! 手紙は全部『拝啓』から始まるものだろう!」
「『北の書庫では、もう暖炉に火が入りましたか』」
私は、静かに言った。
「それが、書き出しです」
謁見の間の全員が、ユリウス殿下を見た。
彼は、懐から一通の手紙を取り出し、広げてみせた。
「一字一句、そのとおりだ」
大臣の一人が、うめくような声を漏らした。
「……ですが、私が書いたと証明できても、それだけでは、私が殿下のお名前を勝手に使ったのかどうかは分かりません」
私は、王妃様のほうを向いた。
「王妃陛下。十年前の、春のことを覚えていらっしゃいますか」
王妃様が、目を閉じた。
しばらくして、深く息を吐く。
「……ええ。覚えています」
王妃様は、袖の中から古い羊皮紙を一枚取り出した。
「陛下。これは十年前、私がこの子に出した命令書です」
羊皮紙が、国王陛下の手に渡る。
陛下はそれを読み、眉間の皺を深くした。
「『アルベルトの名で出すすべての文を、クラリス・ベルモントに書かせる。これは王妃の命である』……」
謁見の間が、ざわめいた。
「アルベルトが八つのとき、先帝陛下に送った手紙のことは、陛下もご存じでしょう。あのあと私は、この子に代筆を命じました。八歳の女の子に、です」
王妃様の声が、わずかに震えた。
「この子は十年間、一度も文句を言わず、一度も秘密を漏らさなかった。偽造などではありません。私が、この子に背負わせたのです」
アルベルト殿下が、口をぱくぱくさせた。
「そ、そんな……母上、なぜ俺に黙って……」
「言ったでしょう、何度も」
王妃様が、初めて息子をまっすぐに見た。
「『手紙はクラリスに相談しなさい』と。あなたは、それを『あいつに任せておけばいい』と聞き取っていたようだけれど」
誰かが、小さく咳払いをした。
「それに」
ユリウス殿下が、静かに口を開いた。
「偽造の罪を問うなら、帝国としても黙ってはいられない」
副使が、革の書類鞄から手紙の束を取り出した。
三年分。私が書いた手紙だ。
「この三年で交わした書簡のおかげで、両国の友好条約は、あと署名を残すのみとなりました。帝国の大臣たちを説き伏せたのは、この手紙です。もしこれが偽物だというのなら、条約そのものを見直さねばならない」
大臣たちの顔色が、一斉に変わった。
「ですが、本物だというなら」
ユリウス殿下は、私を見た。
「帝国は、この手紙の書き手を、条約の立役者として正式にお迎えしたい」
国王陛下が、長い長いため息をついた。
玉座から、息子を見下ろす。
「アルベルト」
「は、はい、父上」
「昨日の式典で、お前は帝国の皇太子殿下の前で、帝国を『寒い国』と呼んだ」
「そ、それは、歓迎の気持ちで……」
「十年前と、同じ言葉でな」
アルベルト殿下の顔が、白くなった。
「そして今日、十年間お前を支えてきた娘を、反逆者として告発した。王妃の命令書を確かめもせず、帝国の使節の前で」
陛下は、玉座の肘掛けを指で叩いた。
一度。二度。
「王太子の位は、第二王子エドガーに譲らせる。お前は北の離宮で、文字の書き取りからやり直せ」
「ち、父上!」
アルベルト殿下が膝をついた。
床を這うようにして、私のほうへ手を伸ばしてくる。
「ク、クラリス! 頼む、戻ってきてくれ! また俺の代わりに書いてくれれば、婚約破棄はなかったことに――」
「お断りいたします」
自分でも驚くほど、すんなりと声が出た。
「私のペンは、もう殿下のものではございませんので」
アルベルト殿下は、すがるようにミレイユ様を振り返った。
「ミ、ミレイユ。君は、俺を見捨てないよな? 俺たちは、真実の愛で……」
ミレイユ様は、しばらく黙っていた。
やがて、手提げから、あの桃色の封筒を取り出した。
もう一枚、しわの寄った便箋も。
「……殿下。これは、昨日いただいたお手紙ですわ」
彼女は、二枚を並べてアルベルト殿下に見せた。
細くまっすぐな文字と、太く傾いた文字。
「字が、違いますの。わたくし、ゆうべ一晩、見比べておりましたわ」
アルベルト殿下は、何も言えなかった。
ミレイユ様は、桃色の封筒だけを、私に差し出した。
「わたくしが恋をしたのは、この手紙でしたわ。冬の終わりの雨。凍った土を、音もなくほどいていく。……これを書いたのは、殿下ではなかったのですね」
私は、黙って封筒を受け取った。
「クラリス様。ひとつだけ、教えてくださいまし」
ミレイユ様の目が、少しだけ赤かった。
「あの一文。本当は、どなたを思ってお書きになったの?」
答えられなかった。
答えは、すぐ隣に立っていたから。
ミレイユ様は、それで分かったようだった。小さく笑って、膝を折る。
「……お幸せに」
そして、アルベルト殿下には一度も振り返らずに、謁見の間を出ていった。
◇◇◇
一週間後。
伯母様の領地の、小さな屋敷。
窓辺の机で、私は一通の手紙を開いた。
帝国の紋章の封蝋。見慣れた、少し右上がりの文字。
宛名は、初めて見るものだった。
『クラリス・ベルモント殿』
条約の署名式は、三日前に無事に終わったらしい。手紙には、そのことが短く書かれていた。
続けて、北の冬のこと。書庫の古い詩集のこと。眠れない夜に、私の手紙を読み返していたこと。
同封されていたのは、帝国書記院からの正式な招待状だった。
『帝国書記院は、両国友好条約の起草者として、クラリス・ベルモント殿を客員書記官に迎えたい』
最後の一枚は、彼の私信だった。
『この三年、私は誰かの名を借りたあなたに手紙を書いてきた。これからは、誰の名も借りないあなたと、言葉を交わしたい。
帝国の春は遅い。待つことには慣れているつもりだった。冬は春を待つ力をたくわえる季節だと、あなたが教えてくれたから。
だが、あなたのことだけは、春まで待てそうにない。
雪が降る前に、あなたを迎えに行ってもいいだろうか。
返事を待っている。今度こそ、あなたの名前で。
ユリウス』
便箋の上に、ぽたりと雫が落ちた。
慌てて袖で押さえる。インクが、少しだけにじんだ。
私は、新しい便箋を引き寄せた。
ペンを取る。右手の中指のペンだこが、いつもの場所に収まる。
書きたいことは、たくさんあった。
けれど、まず書くべきことは一つだけだった。
『参ります。』
それから、一行ずつ、ゆっくりと書いた。
最後に、十年間、私の手紙の最後に一度も書かれることのなかった名前を、書いた。
『どうか、よい夜を。
クラリス・ベルモント』
◇
返事を出して、ちょうど五日後の朝。
屋敷の前に、黒塗りの馬車が止まった。帝国の紋章。四頭立て。
伯母様が、窓から外をのぞいて、目を丸くした。
「クラリス。迎えの御者が……ずいぶん、身なりのいい方ね」
私は、階段を駆け下りた。
玄関の扉を開ける。
御者台から、銀の髪の青年がひらりと飛び降りた。
「すまない。待てないと書いたのは、本当だった」
ユリウス殿下は、少しだけ照れたように笑った。
「迎えに来た。クラリス」
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます! これで第1章前半が完結です。次回からは帝国編。ユリウスの溺愛が本格的に始まります。 「面白かった」と思っていただけたら、☆☆☆☆☆を★★★★★にしていただけると、作者が泣いて喜びます。




