寒い国へようこそ
歓迎式典の日。
伯母様の領地へ発つ予定は、一日延ばした。
国中の貴族が出席を命じられた式典に、伯爵家の娘が顔を出さないわけにはいかない。それが表向きの理由だ。
本当の理由は、自分でもよく分からない。
王宮の正門で馬車を降りると、父が私の腕を取った。
「無理はするな。具合が悪いと言って、いつでも帰っていい」
「大丈夫です、お父様。見届けるだけですから」
自分が書かなかった言葉が、どうなるのかを。
控えの回廊を進んでいると、柱の陰から、ひょろりと背の高い少年が出てきた。
第二王子、エドガー殿下だった。
「クラリス嬢」
殿下は、周りを気にするように声をひそめた。
「兄の非礼を、僕からお詫びします。本当に、申し訳ありませんでした」
「エドガー殿下が謝られることでは」
「それと……ずっと、お礼が言いたかったんです」
エドガー殿下は、少し赤くなってうつむいた。
「去年の水害で、僕の乳母の村が流されました。兄の名前で届いた弔文を、乳母は今も枕元に置いています。『殿下が、こんなに私たちのことを思ってくださるなんて』って」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
あの弔文は、一晩で十七通書いた。村ごとに、亡くなった人の名前を一人ずつ確かめながら。
「乳母には、本当のことは言えません。でも、僕は知っています」
エドガー殿下は、ぺこりと頭を下げた。
「あの手紙を、ありがとうございました」
何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
十年間、私の文にお礼を言った人は、ほとんどいなかった。言える人が、いなかったのだ。
エドガー殿下が走り去ったあと、父が黙ってハンカチを差し出してくれた。
大広間に入ると、あちこちから視線が刺さった。
「ほら、あの方よ」
「代筆なんて、婚約破棄された腹いせの作り話でしょう?」
「でも、侍従長様の顔色をご覧になった? 昨日から真っ青よ」
聞こえないふりをして、大広間の隅に立つ。
扇を広げると、少しだけ息がしやすくなった。
壇上の脇には、アルベルト殿下が立っていた。手には紙を一枚。何度も折り直したらしく、しわだらけだ。
少し離れた貴族席に、ミレイユ様の姿もあった。
いつもなら殿下の腕にぶら下がっているはずの人が、今日は一人で座っている。膝の上で、小さな手提げをぎゅっと握りしめて。
私と目が合うと、彼女はすぐに視線をそらした。
ファンファーレが鳴った。
帝国の使節団が入場してくる。黒と銀の礼装。その先頭に立つ青年を見て、周りの令嬢たちが息をのんだ。
ユリウス・ヴァルデン皇太子殿下。
背が高い。夜の湖みたいな、深い青の瞳。雪のような銀髪を、後ろで一つに結んでいる。
手紙の文字から想像していたより、ずっと若くて、ずっと静かな人だった。
――少し右上がりの、几帳面な字。
――「無理はなさらないように」と、毎回最後に一行添えてくる人。
あの人が、あの手紙を書いていたのか。
扇を持つ指に、力が入った。
「――それでは、アルベルト王太子殿下より、歓迎のお言葉を賜ります」
アルベルト殿下が、壇上に上がった。
紙を広げる手が、かすかに震えている。
嫌な予感がした。
「て、帝国の皆さん、ようこそ」
声が裏返った。
「我が国と帝国は、これから仲良くします。とても、仲良くします」
広間の空気が、凍りついた。
貴族たちの何人かが、顔を見合わせる。宰相閣下が、そっと目元を押さえた。
帝国の使節団の中で、年配の副使が眉をぴくりと動かした。
殿下は、気づいていない。
「帝国は寒いと聞きましたが、我が国はあたたかいので……ゆっくり、していってください。以上です」
拍手は、まばらだった。
私は扇を握りしめた。
――十年前と、同じ言葉。
帝国の人間に向かって「寒い」と言うのが、どういう意味か。殿下は、十年経っても知らないままだった。
使節団から、低いざわめきが起こる。
副使が、ユリウス殿下に何かを耳打ちした。険しい顔だった。
その時、ユリウス皇太子殿下が、一歩前に出た。
「ご丁寧なお言葉、感謝いたします」
穏やかな声だった。
広間中が、彼の次の言葉を待った。
「アルベルト殿下とは、この三年、書簡を交わしてまいりました。帝国の冬を『凍える季節』ではなく、『春を待つ力をたくわえる季節』と書いてくださったのは、殿下が初めてでした」
――それは、私が書いた文だ。
二年前の冬。帝国で大雪が続き、多くの村が孤立したと聞いた夜に書いた。
「帝国の民はあの一文を、今も語り草にしております。私自身、あの手紙を今も書斎の引き出しに入れています」
胸の奥が、ぎゅっと縮んだ。
「ですから、今日のお言葉には少々驚きました」
ユリウス殿下は、微笑んだ。
ただし、目は少しも笑っていなかった。
「まるで、別の方のお言葉のようで」
アルベルト殿下の顔から、血の気が引いていく。
「い、いや、それは……今日は、その、喉の調子が」
「お大事になさってください」
ユリウス殿下は、それ以上何も言わずに一礼した。
それが、何よりも重い返事だった。
広間のあちこちで、ひそひそ声が戻ってくる。今度は、さっきとは違う種類の声だった。
――ねえ。やっぱり、代筆の話って。
――しっ。
私は、壇上から目をそらした。
これ以上は、見ていられなかった。
ざまあみろ、と思えればよかった。
けれど胸に浮かんだのは、十年かけて積み上げたものが、目の前で崩れていく音だった。帝国との条約。北の村への小麦の約束。手紙一通ずつ、言葉一つずつ、並べてきたもの。
扇で顔を隠し、壁際をそっと出口へ向かう。
その途中で、ふと視線を感じた。
振り返る。
壇上のユリウス殿下が、広間をゆっくりと見回していた。
何かを探すように。
一人ひとりの顔を、確かめるように。
その青い目が、扇の陰の私のところで、一瞬だけ止まった――気がした。
私は、急いで扉の外へ出た。
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