きみはかわいい。とてもかわいい
【王太子アルベルト視点】
「殿下、そろそろ原稿を……」
「分かっている!」
アルベルトは、羽根ペンを机に叩きつけた。
インクが飛んで、白い紙に黒い染みが三つできた。
歓迎式典は明日だ。
夜会から一夜明けた王宮は、どこへ行ってもひそひそ声で満ちていた。
廊下を歩けば、女官たちが口をつぐむ。近衛兵が、妙に目をそらす。
――代筆って、本当なのかしら。
――でも、殿下の字って見たことある?
聞こえないふりをした。
「くだらん。あいつの作り話を真に受けやがって」
「は。ですので、ここは殿下ご自身の見事なお言葉で、噂を打ち消されるのがよろしいかと」
侍従長が、妙に平坦な声で言った。
なぜか昨夜から、この老人の顔色がやけに悪い。
「……おい。宮廷書記官を呼べ。下書きくらいは書かせてやる」
◇
呼ばれてきたのは、王宮に三十年仕える老書記官だった。
一時間後、彼が差し出した原稿を、アルベルトは読んだ。
『ヴァルデン帝国皇太子殿下ならびに使節団各位におかれましては、遠路はるばる御来臨を賜り、恐悦至極に存じ奉ります。顧みれば両国の交誼は――』
三行で眠くなった。
「……なんだこれは」
「は。正式な外交の御挨拶でございます」
「俺らしくない!」
アルベルトは、原稿を突き返した。
「いつもの俺の挨拶は、もっとこう……短くて、分かりやすくて、それでいて品があって、聞いた者がなぜか泣くんだ!」
老書記官は、深々と頭を下げた。
「恐れながら、殿下。そのような文は、私には書けません」
「なに?」
「殿下のこれまでの御挨拶は、写しを拝見しております。殿下のお口癖、話し方、間の取り方まで、すべて殿下ご本人のものでした。それでいて、殿下ご本人よりも……」
書記官は、そこで口を閉じた。
「……よりも、なんだ」
「いえ。失礼いたしました」
書記官が下がったあと、アルベルトは長いこと原稿用紙をにらんでいた。
◇
「兄上、お呼びですか」
次に呼びつけたのは、弟のエドガーだった。
十五歳。背ばかり伸びて、いつも本を抱えている。剣の稽古より書庫が好きな、王家の変わり者だ。
「お前、本ばかり読んでいるだろう。明日の挨拶を書け」
「僕が、ですか?」
エドガーは、困ったように眉を下げた。
「無理ですよ。僕には、クラリス嬢のような文は書けません」
「……なに?」
「兄上の名前で出ていた手紙、僕はずっと尊敬していたんです。特に去年の水害の弔文。あれを読んで、僕は文官になりたいと――」
言いかけて、エドガーは両手で口を押さえた。
「……お前、知っていたのか」
「い、いえ! 知っていたというか、その……兄上が書いたにしては、綴りが一つも間違っていなかったので……」
アルベルトは、無言で弟を部屋から追い出した。
扉の向こうから、「すみません兄上!」という声が聞こえた。
侍従長が持ってきた「過去の演説の写し」も読んでみた。何が書いてあるのか、半分も分からない。
『両国の間に横たわる長い冬を、我々は今、ともに越えようとしている』
冬? 今は秋だろう。
「……まあいい。要するに、仲良くしようと言えばいいんだ」
アルベルトは新しい紙を引き寄せ、書き始めた。
『ていこくの皆さん、ようこそ。我が国と帝国は、これから仲良くします。とても仲良くします。以上』
「……短いな」
もう一行足した。
『帝国は寒いと聞きましたが、我が国はあたたかいので、ゆっくりしていってください』
満足して、うなずく。
侍従長が、原稿をのぞき込んだ。
そして、目を閉じた。
「……殿下。差し出がましいようですが、『寒い』という言葉だけは」
「なんだ。帝国が寒いのは本当だろう。気づかってやっているんだ」
侍従長は、それ以上何も言わなかった。
◇
そこへ、扉が叩かれた。
「アルベルト様ぁ」
ミレイユだった。頬を少し膨らませている。
「夜会のあと、新しいお手紙をくださるとおっしゃいましたのに、まだですの? わたくし、あんなことを言われて、心細くて……」
「あ、ああ。今書く」
ちょうどいい。あの女の話がでたらめだと、ミレイユに証明してやればいい。
アルベルトは便箋を取り、考えた。
美しい言葉。あの女が書いていたような。
冬の、なんだったか。雨の……。
……思いつかない。
『ミレイユへ。きみはかわいい。とてもかわいい。きのうもかわいかった。アルベルト』
渡すと、ミレイユはそれを三回読み返した。
そして、首をかしげた。
「……春の雨は、どこですの?」
「春の、なんだって?」
「『冬の終わりに降る最初の雨』ですわ。あの続きを、ずっと楽しみにしておりましたのに」
ミレイユの声が、少しだけ低くなった。
「あ、あれは……あの時は、そういう気分だったんだ。今日は、かわいいという気分なんだ」
「……そうですの」
ミレイユは、にっこりと笑った。
笑ったまま、便箋を丁寧に畳んで、袖にしまった。
「大切にいたしますわ」
アルベルトは、なぜか背中に冷たい汗をかいた。
◇◇◇
【ミレイユ視点】
その夜。
ローゼ男爵家の小さな私室で、ミレイユは机の上に手紙を並べた。
殿下からいただいた恋文。全部で七通。
桃色の封筒、空色の封筒、白に金の縁取り。どれも、何度も読み返して角が柔らかくなっている。
その横に、今日の一枚を置いた。
『きみはかわいい。とてもかわいい』
ろうそくの火を近づける。
七通の文字は、どれも細くて、まっすぐで、少しだけ右に流れる癖があった。
今日の一枚の文字は、太くて、ところどころインクが溜まって、行が右下へ傾いていた。
ミレイユは、しばらく何も言わなかった。
やがて、七通のうちの一通を手に取り、指先で文字をなぞった。
「……字が、違いますわ」
王太子の恋文、ミレイユ様は大切にしまったそうです。お読みいただき、ありがとうございます。 ブックマーク・☆評価で応援いただけると嬉しいです!




