ペンだこの十年
屋敷に戻ると、父が玄関で待っていた。
話はもう届いていたらしい。王宮の噂は、馬車より速い。
「クラリス」
父は何か言いかけて、やめた。代わりに、私の右手を取った。
ペンだこを、大きな親指でさする。
「……やっと、終わったか」
その一言で、喉の奥が熱くなった。
父は、知っていた。知っていて、何もできなかった。王妃様の命令に、伯爵家が逆らえるはずもない。
だから十年間、父は毎晩、私の部屋の灯りが消えるまで起きていた。一度も口には出さなかったけれど。
「お父様。私、明日から伯母様の領地へ参ります」
「ああ。好きなだけいなさい」
それだけ言って、父は私の頭に手を置いた。子どもの頃以来だった。
◇
部屋に戻り、ドレスのまま寝台に腰を下ろす。
机の上には、インク壺と、羽根ペンが三本。使い込みすぎて、どれも軸が少しすり減っている。
一本目は、公式の書簡用。二本目は、詫び状と弔文用。三本目は――恋文用。
殿下がミレイユ様に夢中になってから、三本目のペンばかり減るようになった。
婚約者の恋文を、婚約者自身が書く。
最初の一通を書いた夜は、さすがに手が止まった。けれど結局、朝までに仕上げた。仕事だったから。
三本とも、伯母様の領地へは持っていかないことにした。
十年前。私が八歳のときのことだ。
まだ八歳だった殿下が、帝国の先帝陛下のお誕生日に、お祝いの手紙を出した。王妃様が「子どもの手紙なら、かえって喜ばれるでしょう」と、中身を確かめずに送ってしまったその手紙には、こう書かれていた。
『ていこくは さむくて かわいそうです。はやく あったかい くにに なってください』
帝国では、寒さに耐える民こそが誇りだ。
手紙は外交問題になりかけ、我が国は大量の小麦を贈って、ようやく許してもらった。
その直後、王妃様に呼び出されたのが、同い年で「字がきれいで、作文がうまい」と評判だった伯爵家の娘――私だった。
王妃様の私室は、薔薇の香りがした。
『これから先、アルベルトの名で出す文は、すべてあなたが書きなさい。このことは、誰にも言ってはなりません』
八歳の私は、意味もよく分からないまま「はい」と答えた。
最初に書いたのは、先帝陛下へのお詫びの手紙だった。
王妃様は、それを赤いペンで直した。一枚の便箋が、真っ赤になった。
『いいこと、クラリス。あなたが書くのは、あなたの言葉ではないの。アルベルトが「言いそうなこと」を、アルベルトが言えないくらい上手に書くのよ』
十回書き直して、ようやく一枚が通った。
殿下との婚約は、その一か月後に決まった。
秘密を守らせるには、身内にしてしまうのが一番早い。そういうことだ。
それから、十年。
十二の頃には、殿下の名で出す弔文を書きながら、会ったこともない遺族のために泣いた。
十五の頃には、殿下が学院で何を言い、誰と喧嘩したかを毎朝侍従から聞き取って、その日のうちに詫び状を書けるようになった。
茶会に遅れたのは、詫び状が終わらなかったから。
殿下の話を聞いていなかったのは、殿下の話を、手紙にどう書き直すか考えていたから。
――殿下には、一度も言わなかったけれど。
◇
夜半過ぎ。
扉が、控えめに叩かれた。
「お嬢様。王宮から、侍従長様がお見えです」
客間に下りると、白髪の侍従長が、帽子を握りしめて立っていた。十年間、殿下の予定と失言を毎朝私に伝えに来てくれた人だ。
「夜分に、申し訳ございません」
「いいえ。……原稿のことですね」
侍従長は、深く頭を下げた。
「どうか、明後日のお言葉だけでも。殿下には、私から書いたことにいたします。お嬢様のお名前は、決して出しません」
その言葉に、少しだけ笑ってしまった。
「侍従長様。十年間、私の名前は一度も出ておりません」
侍従長が、はっとしたように顔を上げた。
「殿下は、手紙など誰にでも書けるとおっしゃいました。殿下がそうお考えなら、私が書く理由はございません」
「……ですが、相手は帝国です。もし、十年前のようなことが起きれば」
「その時は」
私は、膝の上で両手を重ねた。
右手のペンだこが、左の手のひらに当たる。
「その時こそ、皆様に分かっていただけるでしょう。誰が、何を書いてきたのか」
侍従長は、長いこと黙っていた。
やがて、もう一度深く頭を下げた。
「……十年、ご苦労さまでございました」
その一言を聞いたのは、初めてだった。
◇
部屋に戻ると、机の上に書きかけの便箋が一枚、残っていた。
帝国の皇太子殿下への、次の手紙の下書きだった。
ユリウス・ヴァルデン皇太子殿下。
三年前から、アルベルト殿下の名で、手紙をやり取りしてきた方。
北の冬の厳しさ。帝国の書庫にある古い詩集のこと。眠れない夜に読む本のこと。
返事はいつも、丁寧で、少しだけ皮肉が効いていて、最後に必ず一行、こちらを気づかう言葉があった。
帝国からの返事は、この十年で初めて、私の文に「返ってきた」言葉だった。
ミレイユ様への恋文を頼まれた夜も、机の端には帝国からの最新の手紙が置いてあった。
凍った土を、音もなくほどいていく雨。
あれは、届くかどうか分からない返事を待つ夜に、ふと浮かんだ一文だった。
でも、あの手紙はアルベルト殿下宛てだ。
私宛てでは、ない。
便箋を畳んで、引き出しの奥にしまった。
――どうせ、明後日には全部ばれる。
お読みいただき、ありがとうございます。 ブックマーク・☆評価で応援いただけると嬉しいです!




