その恋文、書いたのは私です
「クラリス・ベルモント! 今この場をもって、お前との婚約を破棄する!」
王宮の大広間に、王太子アルベルト殿下の声が響き渡った。
楽団の演奏が止まる。グラスを持ったまま固まる貴族たち。給仕の銀盆の上で、シャンパンの泡だけがのんきに弾けていた。
殿下の腕には、ふわふわした金髪の令嬢がぴったりと寄り添っている。ミレイユ・ローゼ男爵令嬢。最近、殿下がどこへ行くにも連れて歩いている方だ。
「お前の罪を数えてやろう!」
殿下は、懐から一枚の紙を取り出した。
用意してきたらしい。
「一つ! お前は地味で、可愛げがない! 二つ! 茶会に遅れてばかりで、俺に恥をかかせた! 三つ! いつも机にかじりついて、俺の話を聞かない!」
一つ目は、否定しない。
二つ目と三つ目の理由は、殿下の手紙を書いていたからだ。
そして、今殿下が読み上げているその紙。たぶん、側近の誰かが急いで書いたのだろう。三か所、文法がおかしい。
「よって、お前のような女は未来の王妃にふさわしくない。俺が愛しているのは、このミレイユだ!」
ざわめきが波のように広がっていく。
私は、右手の中指にできたペンだこを、そっと親指でなぞった。
「……理由は、それで全部でしょうか」
「まだ足りないのか?」
殿下が鼻で笑う。代わりに口を開いたのは、ミレイユ様だった。
「わたくしたち、真実の愛で結ばれておりますの」
彼女は胸の前で、一通の手紙を大切そうに抱きしめた。
見覚えのある封筒だった。
淡い桃色。封蝋は王家の百合。三週間前、私が自分の手で封をしたものだ。
「殿下がくださったお手紙に、こう書いてありましたの。『あなたの笑い声は、冬の終わりに降る最初の雨だ。凍った土を、音もなくほどいていく』……わたくし、この一文を読んで、三日も眠れませんでしたわ」
周囲の令嬢たちから、ほう、とため息が漏れた。
「素敵……」
「殿下に、あんな詩的な一面が……」
私も、あの一文を書いた夜は眠れなかった。
締め切りが、翌朝だったので。
「こんなに美しい言葉をくださる方を、愛さずにいられるでしょうか。クラリス様には、殿下のこの繊細なお心がお分かりにならなかったのですわ」
「そういうことだ。お前には、俺の心が分からない」
殿下が胸を張る。
ええ、分かりません。
あなたの心は、一度も紙の上に出てきたことがないので。
私は、ゆっくりと膝を折り、礼をした。
「承知いたしました。婚約の解消、謹んでお受けいたします」
あまりにあっさり受け入れたからか、殿下が拍子抜けした顔をする。
「……ふん。泣いてすがるかと思ったが」
「つきましては、もう一つ」
顔を上げる。
「本日をもちまして、代筆の任も辞させていただきます」
大広間が、しんとした。
「……代筆?」
殿下が眉をひそめる。
「何の話だ」
「殿下のお名前で出されるお手紙、ご挨拶、演説、弔文。十年間、すべて私が書いてまいりました」
私は、ミレイユ様の胸元の封筒に目をやった。
「そちらの恋文も、です」
ミレイユ様の手から、封筒がはらりと落ちた。
ざわめきが、さっきの倍になって戻ってくる。
十年守ってきた秘密を、私は今、自分の口で破った。
不思議と、指先は震えなかった。
「で、でたらめを言うな!」
殿下の顔が赤くなった。
「お前の作り話だ! 俺の手紙は、俺が書いた!」
「左様でございますか」
「そうだ! だいたい、手紙なんてもの、誰にでも書ける! お前がいなくても、何も困らん!」
「それは、ようございました」
私は、もう一度だけ礼をした。
「では、明後日の帝国使節団の歓迎式典でのお言葉も、ご自分でお書きになれますね」
殿下の口が、開いたまま止まった。
ヴァルデン帝国。北の大国。我が国が十年かけて、ようやく友好条約の一歩手前までこぎつけた相手。
明後日、その帝国から皇太子殿下が使節団を率いてやってくる。
歓迎のお言葉の原稿は、まだ一文字も書かれていない。
書くはずだったのは、私だから。
「……そ、それくらい、当然だ」
殿下の声が、ほんの少しだけ裏返った。
それから、思い出したように声を張り上げる。
「だいたい、証拠はあるのか! 俺の手紙を、お前が書いたという証拠が!」
「必要でしたら、いつでもお出しいたします」
私は、穏やかに答えた。
「ですが、お困りになるのは殿下のほうかと存じますので。今夜は控えておきます」
殿下の顔が、赤から紫に変わった。
周囲の貴族たちが、顔を見合わせている。年配の侯爵が、扇の陰で隣の夫人にささやいた。
「……そういえば、去年の水害の折の弔文。あれは見事だった。殿下がお書きになったとは、どうにも」
「しっ。聞こえますわよ」
聞こえている。
殿下にも、聞こえたらしい。拳を握りしめて、侯爵のほうをにらんだ。
大広間の隅、柱の陰では、白髪の侍従長が真っ青な顔で立ち尽くしていた。十年間、毎朝私に殿下の予定と失言を伝えに来てくれた人だ。
目が合う。
侍従長は、何か言いたそうに口を動かして、結局うつむいた。
八歳から、十年。
あの人だけは、全部知っている。
床に落ちた桃色の封筒を、ミレイユ様は拾わなかった。
じっと見下ろしている。
その目に何が浮かんでいるのか、私には分からなかった。
「それでは皆様、どうか、よい夜を」
背を向けて、大広間を出る。
扉が閉まる直前、殿下の「おい、待て」という声が聞こえた気がしたけれど、私はもう振り返らなかった。
廊下の窓の外で、秋の月が冷たく光っていた。
歩きながら、右手を開いて、閉じた。
明日から、このペンだこはどこにも行き場がない。
それなのに、足取りは驚くほど軽かった。
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