第117話 山南の反撃
読経までもが止まって、式場が、水を打ったように静まり返った。
女たちが同時に振り返ると、出入り口から現れたのは、車椅子に腰掛ける高齢の男であった。げっそりと痩せこけていて、場所が場所なだけに棺桶から抜け出してきたのかと思わせるほどに老いしぼんだ顔である。
車椅子を押していたのは、スーツを着た中年の男だった。目が合うと軽く会釈されたその顔に、祝はあっと一年ほど前の記憶が蘇った。
(あのときの弁護士だ……)
一方、老人の方は一瞬も逸らすことなく女たちをひたすらに見据えていた。その瞳の奥には、静かな冷炎が揺らめいている。
「山南さん……」
女の一人が、声を漏らした。
山南と呼ばれた老人は静かにうなずき、少し離れた場所にいた彼女たちの夫にも、一人ずつ順々に射抜くような目を据えた。
「お、お久しぶりですねえ、山南さん。お元気でした?」
別の女が、頬を引き攣らせながら声をかけた。あれは確か、ほかの二人からお義姉さんと呼ばれている女である。
山南の全身から、怒りの気配が立ち昇った。
「いいや。ほんの三日前までは、君たちの言うとおり死人同然の寝たきり状態でね。だが、此葉さんのおかげで、やっとこうして君たちと会って、けりをつけようと思えるようになったんだ」
へえぇ、と薄笑いの絡んだ声が、そばから湧いた。
「けりって何のことです? 山南さん」
やって来たのは、三人の女たちの夫であり、此葉の実の兄たちだ。
「久しぶりにお会いしたのに、ずいぶんと喧嘩腰じゃあないですか」
山南が、此葉の兄たちの方へと向き直った。
「もちろん、さんざん貸した金の返済のけりをつけるために決まってるじゃないか」
はあ? と、男一人が悪びれもせずに聞き返した。あれは確か此葉の長兄で、妻同様にずば抜けて太々しい男である。
「何ですか、それは。お金なんて、借りた覚えはありませんよ」
と、もはや清々しいとすら思える口振りでシラをきる。
山南が、さらに血の気を昇らせ、
「君たちの口座に振り込んだ記録は、ちゃんと残ってるんだ」
と詰め寄ろうが、
「あれは、くれると仰ったからいただいたお金じゃないですか。いやだなぁ、忘れないでくださいよぉ」
と、いけしゃあしゃあと言ってのけた。
「わたしは貸してやったんであって、くれてやったんじゃない!」
山南の語気が、荒くなる。しかし、相手は一向に動じない。
「だったら、証拠を見せてくださいよ。俺たちに貸したって言うんなら、借用書の一枚くらい、書かせたはずでしょ」
「それは、君たちが必ず返すと言ったから……」
「それじゃあ、話にならないなあ」
三兄弟と妻三人が、揃って嗤った。そこへ、
「でしたら、あなた方は贈与契約書をお持ちでしょうか?」
と、割って入る声があった。山南の後ろで立っていた、スーツ姿の中年の男だ。
は? と、長男が聞き返せば、
「お金は、あくまでも借りたわけではなく贈与されたと仰るのなら、それを証明できる契約書等の書面はお持ちでしょうか? もしお持ちでないのなら、何をもって〈いただいた〉と言い切れるのか、詳しくご説明いただきますでしょうか」
と、淡々とした声で問いを重ねる。
「誰だよ、あんた」
長男がチンピラよろしく問い返すと、スーツ姿の男は、上着の内ポケットから名刺を取り出し、長男に渡した。
「わたくし、山南様よりご相談を承っております、弁護士の高枝と申します」
三兄弟とその妻たちの顔が、途端にぴしりと強張った。
「弁護士……」とつぶやく長男の声が、わかりやすく硬くなる。
「それに、借用であったならもちろん税金はかかりませんが、贈与であるなら贈与税が課せられます。はっきりと〈いただいた〉と仰るのなら、とっくに申告のうえ納税済みでいらっしゃいますよね? その証明書は、お持ちでしょうか? 失くされたと仰るなら、わたくしの方で税務署に確認を取ることも可能ですが?」
「そ、それは……」と、長男の目が泳ぐ。弟たちとその妻たちも、一様に動揺の色を隠せずにいた。さらには、
「残念だ。妻の甥っ子たちを、脱税犯にさせなくちゃあならないとは……」
と、ため息混じりに発した山南の言葉を聞いて、たちまち六人の顔色が失せていった。
「それにーー」
高枝が、ポケットからスマホを取り出した。「不躾と存じてはいましたが、先ほどの奥様方の会話を録音させていただきました。こちらの音声は、裁判になれば証拠として提出させていただくつもりです」
そう言って画面に表示された再生ボタンを押して見せた。直後、はっきりと聞こえてきた音声は、
『あの爺さんもずいぶんチョロくて馬鹿な爺さんだったわよね。ええと、名前はたしか……』
『山南さんよ。山南将一。ほんと、借用書も書かさずに、あんなにポンポンお金貸してくれる爺さん、そうめったに会えるわけないわよ』
山南が登場する直前の妻たちの声だった。
「本当に、今日は来てよかったよ。まさか、こんなにもタイミングよく私を話題にしてくれるとは思わなかった」
山南が、しみじみとした声で言った。
妻たちの顔が、みるみる青くなってゆく。そんな彼女たちへ、各々の夫たちが妻を見る目とは思えないような憎悪の籠った視線をぶつけた。
「どうやら、ケリはついたようだね」
山南が、精気を帯びた声で言った。
「まあ、そんなに心配することはない。しょせん貸した金は、私ひとりで稼いだ金だ。君たちの斐性じゃあ時間はかかるだろうが、三人で寝る間も惜しんで働けば、ちゃあんと返済できるはずだ」
今度は、夫三人が顔色を青くして小さくなった。
「それに、駐車場で君たちが来るのを待っていたら、なかなかいい車に乗っているところを見かけたよ。それに、奥さんたちが持ってるそのバッグも、私でもわかるブランド品だ。それをすべて売り払えばそこそこの金にはなるだろう。それに、いま住んでいる高級マンションも売っぱらって、賃貸アパートに引っ越すといい。それくらいすれば、返済の目処はつくだろう」
ああ、それとーーと語を継ぐ声が、底冷えするような響きを帯びた。
「噂に聞くと、子供たちにもずいぶん金をかけてやってるらしいじゃないか。月謝代の高い習い事や塾に通わせて、タクシーで送迎させてやっていることも度々あるとか。それもすべて辞めさせてしまえばいい。そうすれば、いい節約になるじゃないか」
「そ、そんな!」
思わずといった調子で、次男の妻が声をあげた。
「山南さん、お願いです。借りたお金は、いつか必ず全額お返しします。でも……でも、娘の習い事だけは取り上げないでやってください! あの子、本当にフルートが大好きなんです。先生にもプロになれるかもって期待されていて、それなのに今さら辞めさせるなんてできません! わたしたちの生活はぎりぎりまで切り詰めて、少しずつでも返済させていただきますから、どうか娘の将来が決まるまでは待ってください!」
言うや呆然としている夫を引っ張り出すと、夫婦は揃って山南に深々と頭を下げた。
「う、うちもどうかお願いします!」
次いで声をあげたのは、三男の妻だ。「うちの子は、どうしても行きたいって言ってる大学があって、毎日寝る間も惜しんで勉強してるんです。ですからどうか、塾だけは通わせてやってください! あの子の将来がかかってるんです!」
言いざま次男の妻と同様に、自分の夫を山南の前に差し出し、二人は揃って腰を折った。
それから、しばしの沈黙が落ちた。長男とその妻は、二人して山南に頭を下げるのをためらっていた。しかし、最後は肚を括ったようで、
「う、うちも、どうか待っていただけませんか」
妻が、先に呻くような声で言った。「うちは、つい先日に夫が事業に失敗して、もうすでに多額の借金を抱えてるんです。今日乗ってきた車も近々売り払う予定で、このバッグだって、実はレンタルで……恥ずかしい話、今あるお金は、息子の養育費だけなんです……ですから、どうかお願いします! ほんの少しずつですが、お金は必ずお返ししますから……」
どうか息子たちの将来だけは奪わないでやってください! と、夫の頭を無理矢理下げさせて、自身も頭を深々と下げた。
しばしの重い沈黙を置いて、山南が深いため息をついた。
「将来だけは奪わないでください、か。人の未来を奪っておいて、よく言ったものだ」
三兄弟とその妻たちが、頭を下げたままうッとデコピンを啖ったのうな顔をした。
「此葉さんと朔弥くんがまだ独身だったころ、二人の結婚を後押ししたのは、私だったんだ」
山南が、祭壇に飾られた此葉の遺影に顔を向けて、眩しそうに目を細めた。
「まだ金にはまったく困っていなかったころの私が、病弱な二人を支援してやると申し出たんだ。たとえ二人して働くことができなくなったとしても、私が必ず支えてやる。だから、誰にも遠慮することなく幸せになりなさいと。子供が生まれても、養育費の心配だって勿論いらない。なんなら私が、その子を立派に育ててみせると此葉さんと朔弥くんに心から誓って、子供が欲しかった私は、その日が来るのをずっと楽しみに待っていたんだ」
けれど、その金はすべて君たちに吸い上げられてしまったーーと、三兄弟と妻たちに目を戻し、鋭い眼光でもって貫いた。
また、冷え冷えとした沈黙が続いた。三兄弟とその妻たちを見る、八尋とその両親や、そのほかの弔問客の白い目で式場内の温度がぐっと下がったようだった。
「顔を、上げなさい」
厳然とした声で山南が言った。
「君たちが頭を下げるべき本当の相手は、私じゃあない。あそこにいる稲司祝くんだ。君たちが私から吸い上げた金は、すべてあの子とその両親に手渡されるはずだったものだったんだ。だから返済の猶予が欲しいのでれば、あの子に今すぐ頭を下げなさい」
そう言って山南に指し示された祝の顔を、三兄弟とその妻たちはもちろん、式場にいる全員が注目した。
「それができないのであれば、金は今すぐ返してもらおう」
とどめとばかりに叩きつけられた言葉に、三兄弟と妻たちは、ただ歯軋りするか唇を震わせるばかりだった。




