第115話 ありがとう
聞き間違えるはずのないその声に、祝は心臓が跳ねるよりも早く枕元へと顔を返した。
叫びたい衝動が、せり上がる。けれど胸が詰まって声が出ない。
煉兎も炎袰も八尋も皆、目を丸くするばかりで声はない。
眠っていたはずの此葉が、目を開けてこちらを優しく見つめていたのだ。
「そうよねぇ、祝」
呼びかけられて、ぺたんと尻餅をつきそうになるところをなんとか耐えた。噴き出すように涙が溢れて、ようやくかすれた声が出た。
「……母さん」
此葉の微笑みが、いっそう眩しく、温もりに満ちた。
「……母さん」
言いたいことは沢山あるのに、それしか言葉が出てこない。
それでも此葉は、祝の手をしっかりと握り返して応えてくれた。かすかではあるが、確かに感じる体温に、嬉しさがとめどなく込み上げた。
「逢えたのね、死神に。二人ともとっても善い人でしょ?」
ちょっと得意げな顔をして、此葉が言う。
祝は、うん、と素直にうなずいた。
此葉が、炎袰へと首を伸ばす。
「久しぶりね、炎袰。あなたならきっと来てくれるって思ってたわ」
目尻にいっぱいの涙をためて、炎袰が答えた。
「なに言ってんのサ、水臭い。あんたとあたしの仲じゃないのサ」
ここで、祝はようやく気がついた。炎袰と初めて会ったときから、ずっと見憶えがあると思っていた彼女のツインテールに結ばれた格子柄のリボンは、此葉の一括りの髪にずっと結ばれていたものとお揃いだった。そんな二人の固く結ばれた絆を見つけて、祝は嬉しくなってほっこりと笑んだ。
「此葉さん、あんたの子供は、あんたそっくりの芯の通った優しい子サ。もう、何も心配いらないよ」
此葉が、自分のことのように嬉しそうに笑って、ありがとう、とうなずいた。
祝は、ちょっぴり照れくさくって頬を掻く。
「八尋ちゃんも」
と、此葉がさらに視線伸ばす。「いつも祝のそばにいてくれてありがとう。これからも、どうかよろしくね」
八尋は、「はいっ!」と、力強くうなずいた。
「それに、煉兎」
此葉が、ゆっくりと顔を上げた。「今まで本当にごめんなさい。わたしのせいで、こんなにもひどい火傷を負ってしまって……」
本当に、本当にごめんなさいーーと、何度も涙ぐんだ声で繰り返す。
そんな湿っぽい空気を蹴散らすように、
「は、はあ?」
と、煉兎がやたらむきになっているような声をあげた。「へへへ、変な勘違い、しし、してんじゃあねえよっ! 俺ぁべつに、おめぇのためにやってたんじゃねえ! 負けた賭けのツケを、きっちり払ってやっただけのことだ!」
いいか? と顎を反り上げて、
「俺ぁな、てめぇから持ちかけた賭けのツケ残したまんま、とんずらするような廃れた男じゃあねぇんだよ! みくびんじゃねえ!」
ぷっと、祝は吹き出した。いったい何を賭けたのかは知らないが、煉兎の此葉への想いは、誰が見たってバレバレだ。
馬鹿だねえ、と、炎袰も後ろで笑っている。
「そ、それより、ほらっ」
煉兎が祝の肩を叩いて促した。
そうして、母と息子は穏やかに見つめ合った。
何から伝えるべきか、祝は悩んだ。で、結局は、
「ごめん、母さん……俺、母さんの病気を治してやれるって思ったんだけど、結局なにもできなかった……」
あれほど黄泉津大神から気に病むことはないと言われていたのに、口をついたのはやっぱり自責の念だった。
そのうえ、いったい何のことなのか此葉にはさっぱりのはずである。天瑞鏡の存在も知らなければ、我が子が死神たちに闘いを挑み、そして殺し、そのうえ一度は死に絶えた経緯など知るはずもない。
けれど、少したくましくなった息子の面差に、命を顧みずに挑んだ激闘の記憶の片鱗を見たのか、此葉は労わるように祝を見つめてかぶりを振った。
「祝ーー母さんはね、あなたが生まれてきてくれただけで幸せだった。そのうえ、こんなに立派になってくれて………お母さんこそ、母親らしいこと何もしてやれなくて、ごめんなさい」
今度は、祝がぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことない! 俺は母さんと父さんの子供で本当によかった。そもそも、この世に生まれてくるはずもなかったのに、生まれてこれたのは、母さんと父さんの子供だったからなんだ。それに、こうして煉兎と炎袰に会えたのも、母さんと父さんの子供だったからだ」
本当にありがとう……
此葉の目から、大粒の涙が零れ落ちた
「ありがとう、祝」
そう言って満面の笑みを湛えた母の顔は、煌めくように美しい。
「祝、八尋ちゃんと仲良くね。それと……いつまでも、どうか元気でね」
祝は、深く、力強くうなずいた。
それを見届けて、此葉は煉兎に目をやった。準備はできたーーと言いたげに。
煉兎は目顔でうなずき返し、それから祝にも確認をとるかのように目を向けた。祝も、こくりとうなずき返した。
それを見て、煉兎がゆっくりと此葉の胸へと手を伸ばした。布団を抜け、服を抜け、皮膚も肉も肋骨すらをも通り抜け、両手が胸奥へと吸い込まれてゆく。
此葉が、静かに目を閉じた。
煉兎が、そっと何かを包み込んだ。
掬い上げられたのは、虹と真珠が溶け合ったかのような、息を呑むほどの輝きを放つ魂だった。
此葉は息を引き取った。どこまでも穏やかで、安堵に満ちた表情で。




