第114話 母としての助言
思わずつぶやいた疑問の声に、
「そうだ」
と、煉兎がうなずいた。「このお方の本当のお名前は、伊邪那美命ーーカグツチの実の母上だ。カグツチをお産みになられた折にひどい火傷を負われたせいで神避りあそばれ(神が死ぬこと)、黄泉の王になられたんだ」
祝はしばし呆然として、三、四秒経ってからようやく理解が追いつくと、
「ええぇぇええーー!!」
と仰け反り、絶叫した。
煽璃と炉慈丸から、きっと刺すように睨まれた。さすがにマズいと思ったのか、すぐさま煉兎が祝の頭を簀子縁の上に沈めて、炎袰が、「大変失礼いたしました!」と頭を下げた。
それでも祝は目だけを上げて、御簾に映る影をじっと見据えた。隣にいる八尋も、零れそうなほどに目を見開いて仰天している。
「このひとが、伊邪那美命……」
この国の人間ならば、一度は耳にしたことのある女神の名だ。それが今、御簾を隔てたすぐ目の前に顕現し、こちらに話しかけている。
そんな信じがたい現実に、祝の思考力は混乱の波に呑まれて、あっぷあっぷと溺れかけていた。
「さて、改めまして稲司祝」
いっそう玲瓏と澄み渡る声で、伊邪那美命が呼びかけた。
祝は、はっとして顔を上げた。途端に思考が息を吹き返して、不思議と冴え渡るようだった。
「お母様のことは、誠に残念です。しかし、この国の民を一人残らず殺してるのは、ほかでもないこのわたくしです。そして、死神たちに呪いをかけているのも、またわたくし。さぞかし恨めしくお思いでしょうね」
ほんのわずかな黙念を置いて、「いえ……」と祝は静かにかぶりを振った。
誰もが知る神を憎むなんて、途方もない。此葉の魂が回収されるのだって、おそらくは憎まれて選ばれたわけじゃない。きっと無作為に選ばれてのことだろう。
「そうですか」伊邪那美命から、穏やかな声が返ってきた。
「では、一柱の神としてではなく、子を持つ一人の母として、一つ助言させていただしましょう」
いいですか、祝ーーとやや改まった声で言う。
「母親にとっての救いとは、病気が治ることでも命が延びることでもありません。ですから、何もしてやれなかったーーなんて思って気に病むことはないのです」
「は、はい……」祝は、こわごわ頷いた。
「それに今のあなたなら、天瑞鏡なんてなくても必ずお母様を救えるはずです」
なぜならーーと、続ける声に深みが増す。
「母親にとっての救いとは、子供の成長ただ一つです。ですから、安心して会いに行っておやりなさい。お母様も今のあなたを見たら、きっとお喜びになるでしょう」
伊邪那美命の言葉が、祝の胸に優しく沁みた。両手をついて、
「ありがとうございます」と、心の底から湧き出た想いを声にした。
さてーーと 黄泉津大神が、ひときわ明るい声をあげた。
「こんなときに、ずいぶんと長い寄り道をさせてしまいましたね。今日はこれにてお開きといたしましょう」
簀子縁に座する祝以外の全員が、こっそりと息をつき、空気が緩んだ。と、思いきや、
「されども」と思いがけず続いた黄泉津大神の鋭い語気に、また全員の緊張の糸が、ぴんと音をたてるように張り詰めた。
「わたくしは、あなた方の罪を決して許したわけではありませんよ。あくまでも留め置いておくだけです。それだけは、ゆめゆめお忘れなく」
たちまち、全員が肩をすくめて縮こまった。
さらには、
「祝、八尋」と名を呼ばれ、二人はひゅっと息を引いた。
「今いる死神の隠し子全員が揃ったときに、またお会いするといたしましょう。それまでは、どうか健やかであられませ」
妙に優しく、いわくありげな声振りに、祝と八尋だけでなく、隠し子を持つ死神たちの背中にもぞっと冷たい風が吹いた。
◇◆◇◆
黄泉津大神に別れを告げて、祝と八尋と死神たちは、黄泉の国をあとにした。
岩戸をくぐった先にあったのは、正鹿神社ではなく、此葉が入院している病室だった。
立っていたのは、祝に八尋、それに炎袰と煉兎のみである。ほかの八人の死神たちの姿は、どこにもない。
祝は、深呼吸をひとつして、此葉の枕許へと歩み寄った。八尋と炎袰と煉兎の温かい眼差しを、背中にひしひしと感じながら。
そっとしゃがんで、「母さん」と静かに囁いてみた。朝焼けに染められた此葉の顔は、まるで精気が蘇ったかのように艶やかだ。今にも目を開けて、「なあに?」と返事をしてくれるのではないかと、期待を寄せてしまうほどに。
けれど、瞼はやはり閉ざされたまま、ぴくりともしない。聞こえてくるのは、かすかな気息の音ばかりだ。
祝は此葉の手を握り、涙を堪えた。か細く痩せた掌に、ありったけの心を注ぎ込んだ。今さら遅いとは思いながらも、湧いては溢るる心を注ぎ続けた。
「なあ、祝……」
煉兎の、労わるような声が降ってきた。「おまえが望むなら、もう今日は此葉の魂を回収するのはやめてもいい。黄泉津大神からは大目玉をもらうだろうが、おまえのためなら明日も、明後日も、一年先だって延ばしてやる。俺の身体のことは気にすんな」
なんなら、あと二十年延ばしてやったっていいんだぜ? と豪語されて、祝は思わず吹き出した。二十年かけて全身くまなく焼け爛れておいて、あと追加で二十年も身を焦がせるわけがない。
けれど、おかげで少し元気が出た。涙がちょっと引いて、肩の力もかすかに抜けた。それから、目許を緩めた顔を煉兎へと上げて、なに言ってんだよ、と言おうとしたそのときだった。
「なに言ってるのよ。だめよ、そんなこと」




