第102話 最後に天瑞鏡を手にする者
炎袰の死屍は、すぐさま灰の山へと変わっていった。
八尋はしばし愕然としていたが、手の甲でぐいっと涙を拭うと、祝をそっと地面に置いて立ち上がり、急いで灰の山を掻き分けた。
現れたのは、天瑞鏡の最後の破片だ。
八尋は面差しを引き締めると、恭しくそれを持ち上げた。
「これで、天瑞鏡が完成する……」
そう言うと両手が震えた。けれど今は、一刻も早く祝を生き返らせて、カグツチのそばを離れなくては。
ひとつ深呼吸をして、炎袰から託された天瑞鏡に最後の破片を嵌め込もうとすると、突如、
「待てぇええッ!!」
後方から、怒声が響き渡った。
八尋が、びくりと背中を震わせて振り向くと、立っていたのは、瀬城であった。ぼろぼろになって、ずいぶん疲弊しているようだったが、濁った目を血走らせて歯を剥く顔には、人間を辞めて違うなにかに生まれ変わったような鬼気が絡みついていた。
「天瑞鏡は、僕のものだ! こっちに渡せ!」
業火を背負う邪鬼さながらの形相に、八尋は一歩、一歩と近づかれるたびに、怖気を振るった。しかし、すぐにきっと睨み返すと、「イヤです」ともう一度破片を天瑞鏡に嵌め込もうとした。
瀬城が慌てて、左手をバタバタと泳がせる。
「待てぇえ! 待て待て待て待て待て待て待てぇ、待って、待って、待ってくれえ……」
繰り返す言葉が、次第に命令から懇願に変わって、しまいには、頼む……お願いだから待ってくれぇ、と涙声になった。
八尋ちゃん、どうかこのとおりだ。僕は、僕はね、母親を生き返らせたいーーそのたった一つの願いのために、今まで生きてきたんだよ。母親を喪くしてからの十七年間、辛い修行も、孤独な日々も、すべては母親を生き返らすためだと信じて耐えてきたんだ。君たちを騙したことは、本当に悪いと思ってる。でもね、この願いは僕の至上の命題であって、もし叶わなけば、もう生きている意味がないんだよ。だから、どうかお願いだ。天瑞鏡を返してくれ!」
そう言って、今度は哀れみを請うかのような目をして近づいてくる。
しかし八尋は、やっぱり「イヤです」と言下に切り捨てた。
「だって先生ーーあなたはお母様を生き返らせたいんじゃなくて、生き返らせることで、誰かを見返したかったんでしょ? そんなのお母様が可哀想ですよ」
うッと、瀬城がたじろいだ。が、すぐに、
「で、でもッ!」と声をあげて祝を指差し、
「それは、祝くんだって、そうだったじゃないか! 君だって知ってただろう!? 彼も母親の病気を治したいんじゃなくて、治すことで親戚連中を見返そうしてたんだ!」
酷い男だよな? なあ!? と妖しく笑った。
「そうですね」と、八尋は静かにうなずいた。
「だから祝も先生も、この鏡の魔力に取り憑かれたんですよ。で、結局は、二人とも願いを叶えることはできなかった」
そして、天瑞鏡の魔力に取り憑かれることもなければ、少しも欲することすらなかった者が、最後に手にする運命となった。
それにね、先生ーーと、八尋はさらに続けた。
「たとえこの鏡を渡して、お母様を生き返らせることができたとしても、今のあなたじゃあ、絶対に愛されることはないですよ。むしろ、生き返った途端に絶望されるだけに決まってます」
だから、やっぱり渡せません、と告げる声は、あくまでも穏やかで、落ち着き払っていた。
けれど、瀬城にとっては会心の一撃だったのか、今度は鼻っ柱を砕かれたような顔してよろめいた。
「な、なにを、わかったようなことを! そんな、そんなはず、ない……お母さんは、どんな僕でも愛してくれるに、決まってる……」
八尋は、わずかに哀れみを注ぐような目をしたが、すぐにそっぽを向いてもう取り合うことはしなかった。そして、今度こそ天瑞鏡を完成させるべく、右手に持つ最後の破片と、左手に持つ欠けた鏡を、胸の前で寄せ合った。
「やめろおおぉぉぉおおおッ!!」
瀬城が、狂犬よろしく駆け出した。
八尋の手によって、天瑞と最後の破片が、ぴたりと嵌った。あっという間に継ぎ目が消えると、十枚の破片だった面影も消して、磨きあげられた美しい銅の鏡が完成した。
その瞬間、人の姿をいっさい映さなかった鏡面が、覗き込む八尋の顔を映し出して、眩いまでの光を放った。
「ああ、あああ……」
干からびてゆくかのような声をあげて、瀬城がその場でへたり込んだ。一瞬にして三十歳は老け込んだような顔して放心している。
それを尻目に、八尋はじっと鏡に映る自分を見つめ続けた。
すると、鏡に映る八尋が口を開き、八尋本人に問いかけた。
「さあ、願いを言え。どんな願いも、たった一つだけ叶えてやろう」
その声は冷たくもなければ、錆を帯びたものでもなく、よく澄んで、温もりに満ちた、八尋自身の声だった。
深く息を吸って、八尋は言った。
「稲司祝を生き返らせて」
鏡に映る八尋の方は、口を閉ざしたままだった。そのままどちらもしばし黙して静寂を置くと、鏡に映る八尋の口が、おもむろに開いた。
「その願い、叶えたり」
そう言うと、顔が消え去り、また元の景色だけを映す鏡になった。
八尋が、横たわる祝に目を転じた。見るや、カグツチに食いちぎられた身体じゅうの傷口が、あっという間に塞がってゆき、軽い擦り傷も、たちどころに消え失せた。
そうして、身体が元に戻ると、次いでビリビリに破れた制服までもが新品同様に修復されて、血の気のいっさいない顔色以外は、すべてが元通りの姿となった。
そのときだ。
暴れ回っていたカグツチが、突然凍りついたように動きを止めた。顔のあたりから火の玉のような真っ赤な光が飛び出すと、一目散に祝へと向かって、その胸の中へと吸い込まれていった。
魂が戻ったのだと、八尋はすぐに理解した。祝のそばにしゃがみ込むと、手を握って固唾を呑み、じっとその顔を見澄ました。
すると、青白くくすんでいた死顔に、ほの朱い血色が注がれてゆくのが、はっきりとわかった。かさついていた唇からは潤いが戻り、そのあいだから聞こえてきたのは、かすかに繰り返す息遣いだった。ほのかな体温と、握り返してくる力が手に伝わって、
「ーー祝」
と、静かに声をかけた。
呼ばれた祝の睫毛が、かすかに揺れて、ゆっくりと瞼が開かれた。まだ朧げではあるものの、自分の名を呼ぶ者を瞳に映すと、
「ーー八尋」
と、口から声が生まれた。
目にいっぱいの涙を溜めて、八尋は何度も何度もうなずき返した。
「俺、カグツチに殺されたんじゃ……」
横たわったままで、祝は視線を巡らせた。地獄に堕ちてしまったのかと思うほどに、あたりは紅蓮の炎に包まれている。
「炎袰さんが自らの命を絶って、天瑞鏡の最後の破片を託してくれたの。そのおかげで、あなたは生き返ることができたのよ」
「炎袰が!?」
祝はがばりと身を起こし、今度はきょろきょろと首を巡らせた。すぐに傍らにある灰の山が目に留まって、生き返って間もないのに、また目の前が昏くなった。
「そんな……そんな……」
灰の山は、寄り添ってくれていたかのような名残すらあった。その上を魂がゆらゆらと飛んでいるのを見て、祝は滂沱の涙を流して泣き叫んだ。
両手で灰を掴み取ると、それを胸に抱いて、
「炎袰……炎袰……」と、何度も何度も名を呼んだ。




