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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第9話 二人だけの約束

 「暴きません」

 セラフィーナの声は、思ったより静かに、私室の月明かりの中へ落ちた。

 大公の目が、わずかに見開かれた。信じられぬ、というより、その言葉の意味を測りかねているような顔だった。秘密を握った者が、それを捨てると言う。彼の十年の常識には、ない答えだったのだろう。

 「なぜだ」掠れた声で、彼は問うた。「そなたには、何の得もない。むしろ、危うくなるだけだ」

 「得のためではありませんから」

 セラフィーナは一歩、彼のほうへ進んだ。窓から差す月光が、二人の間の床に、青白い川のように横たわっている。

 「わたしは、ずっと『予備』でした。姉の代わり。取り替えのきく娘。誰にとっても、わたしでなくても構わない存在でした」喉の奥が、かすかに詰まる。「でも、あなたは違った。輿入れの日、名も知らないわたしを、あなたは迷わず見つけてくれた。この世でただ一人、わたしを取り違えなかった人。その人を、わたしが売れるはずがないでしょう」

 言葉にすると、胸の底の燠火が、はっきりと形を持った。これは献身ではない。もっと切実な、自分自身のための願いだ。

 「わたしは、あなたの秘密を守ります。ただの妻としてではなく――あなたの目になります。あなたが人を取り違えそうなとき、わたしが隣で、そっと教えます。誰も気づかぬように。あなたが『冷酷』の仮面を、これ以上ひとりで被らずにすむように」

 「……そなたを、巻き込むことになる」大公の声は、まだためらっていた。「私の秘密を守るということは、私の敵を、そなたの敵にするということだ。危険な道だ」

 「予備の娘の人生も、それなりに危ういものでしたよ」

 思わず口をついた軽口に、大公が虚を突かれたように瞬きした。セラフィーナは、自分でも意外なほど穏やかに微笑んでいた。「いつ姉の身代わりに差し出されるか、いつ要らぬと捨てられるか。安全だったことなど、一度もありません。それなら、守りたい人のために危ういほうが、ずっといい」

 沈黙が、長く続いた。

 やがて大公が、ゆっくりと片膝を折った。大公が、政略の妻の前に。セラフィーナは慌てたが、彼は彼女の手を取り、その甲に、額を押し当てるようにして、低く言った。

 「……十年だ。十年、私は誰にもこれを言えなかった。助けてくれ、と」

 その手が、かすかに震えていた。氷の大公と呼ばれる男の、剥き出しの素顔が、そこにあった。セラフィーナは空いたほうの手で、そっとその黒髪に触れた。冷たい夜気の中で、その髪だけが、温かかった。

 二人だけの、約束が結ばれた。政略でも、白い結婚でもない。秘密を分かち合った、共犯者の誓い。

 立ち上がった大公の顔から、いつもの氷が、少しだけ薄れていた。「そなたを妻に迎えたのは、家の都合だった」と彼は言った。「だが今は、そうでなくてよかったと思っている。……初めてだ、こんなふうに思うのは」

 不器用な言葉だった。けれどその不器用さが、どんな甘い睦言より、まっすぐに胸へ届いた。


 その夜更け、退出しようとしたセラフィーナを、回廊でギデオンが待っていた。

 「奥方様」老従者は、深々と頭を下げた。「大公様が、あのように誰かに縋られたのを見るのは、十年ぶりにございます。礼を申し上げます」

 「わたしは、当たり前のことをしただけです」

 「いいえ」ギデオンは、手燭の火の向こうで、静かに首を振った。皺深いその目に、何か重いものが揺れている。「奥方様。一つ、お伝えしておかねばならぬことがございます。……この貌喰いは、天災ではございません」

 セラフィーナは、足を止めた。

 「帝国が禁呪を戦場に放ったあの日。あれは、偶然ではなかった。劣勢だった帝国が、なぜあれほど都合よく、失われたはずの古い禁呪を持ち出せたのか。誰かが、内側から手引きしたのです。私は十年、その者の正体を追っております」

 手引き。内通者。大公に呪いを負わせた、真の下手人。

 「まだ、確たる証はございません。ですが、いずれ必ず突き止めます」ギデオンの声が、低く沈んだ。「その者は今も、宮廷のどこかで、涼しい顔をして生きております。大公様を『呪われた無能』と嗤いながら」

 背筋を、冷たいものが伝った。この城の秘密の奥に、さらに深い闇が横たわっている。呪いは、事故ではなかった。誰かの、悪意だった。

 「なぜ、それをわたしに?」

 「奥方様は、人をよくご覧になる」ギデオンは、まっすぐに彼女を見た。「私の老いた目より、あなた様の目のほうが、いつか真実を捉えるやもしれませぬ。大公様をお守りくださるなら、この老いぼれの十年の荷も、少しだけお分けしとうございます」

 差し出された信頼の重さに、セラフィーナは静かに頷いた。守るべきものが、また一つ増えた。夫の秘密。老従者の悲願。そのどちらもが、これから向かう王都で、試されることになるのだろう。


 部屋へ戻る途中、セラフィーナはふと、回廊の窓から夜空を見上げた。

 北の星は、痛いほど冴えている。その下で、彼女は今日、後戻りのできない道へ踏み出したのだと悟った。秘密を守る妻。大公の目。そして、いつか暴かれるかもしれない、真の敵の影。

 翌朝、大公は静かに告げた。

 「王都へ発つ。和約十周年の建国祭だ。臣従の礼に、出ねばならぬ」

 顔と名を、確かめ合う儀式。人の顔を覚えられぬ男にとって、それは処刑台にほかならない。しかも王都には、彼を陥れたい者たちが、手ぐすねを引いて待っている。

 「十年、免れてきたのですね。北境を離れられぬ、という習いを盾にして」

 「そうだ。だが今年は、和約十周年。勅命とあれば、断れば断るだけ、疑いを招く」大公の横顔は硬かった。「顔を確かめ合う場で、私が誰彼を取り違えれば、それで終わりだ。逃げ場はない」

 建国祭は、この夏の盛り。二人が城を出れば、六日をかけて王都へ着き、そこから儀式の日まで、逃れられぬ時が刻まれていく。守ると誓ったその日に、守るべき相手が、自ら最も危険な舞台へ上がろうとしている。

 セラフィーナは、冷えた指を握りしめた。けれど、震えはなかった。むしろ、腹の底に、静かな熱が灯っていた。行こう。彼の目となって。取り替えのきく娘だった自分にしか、できないことがあるのなら。

 窓の外、北の稜線の向こうに、王都のある南の空が霞んでいる。

 北の城を出る六日の道の先に、何が待っているのか。まだ、誰も知らなかった。ただ一つ確かなのは――この道はもう、後戻りできないということだけだった。


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