第10話 六日の密室
王都への道は、六日かかった。
揺れる馬車の中、向かい合って座る大公とセラフィーナの間で交わされるのは、甘い言葉ではなかった。
「もう一度、確かめさせてください」セラフィーナは、膝の上で小さな帳面を開いた。「宮廷であなたに近づく主だった方々。まず、宰相のオルグレン公。恰幅がよく、右手にいつも印章の指輪。声はしわがれています」
「オルグレン。指輪と、しわがれ声」大公が、低く繰り返す。
「次に、財務卿のレーヴェ伯。痩せて背が高く、話すとき左肩が下がる癖があります。……この方は、あなたに好意的だと聞きました」
馬車の車輪が石を踏むたび、二人の体が揺れる。革張りの座席と、埃と、馬の匂い。その狭い密室で、二人は来る戦いの支度を、一つずつ積み上げていった。
顔を覚えられぬ夫のために、セラフィーナは人々を「特徴」で束ね直す。指輪、癖、声。大公はそれを、諳んじては胸に刻む。その繰り返しは、恋人たちの語らいには程遠く、けれど、どんな睦言よりも深く二人を結んでいた。互いの弱さと秘密を、共に背負うということ。それは、信頼と呼ぶよりほかにない何かだった。
「合図を決めておきましょう」セラフィーナは提案した。「大勢の中で、あなたが誰かを取り違えそうなとき。わたしが扇を左手に持ち替えたら、その方の名を、わたしが先に呼びます。あなたは、それを聞いてから応じればいい」
「……そなたは、こういうことに長けているな」大公が、感心したように呟いた。「戦場の伝令のようだ」
「予備の娘は、いつも人の顔色を読んで生きてきましたから」なんでもないことのように、彼女は言った。「誰が機嫌を損ねているか、誰と誰が反目しているか。それを見抜けなければ、家の中で生き延びられませんでした」
その言葉に、大公が目を伏せた。「……そなたも、戦の中を生きてきたのだな。私とは、別の戦場で」
同じ欠落を抱えた二人。似た孤独をくぐってきた二人。馬車の揺れの中で、その事実だけが、静かに二人を温めていた。
ギデオンは御者の隣で、王都の最新の噂を集めてきては、二人に伝えた。宮廷でいま誰が力を持ち、誰が大公家を敵視しているか。老従者の情報網は、この六日の旅でも、休むことなく張り巡らされていた。
三日目の宿で、二人は暖炉の前に並んで座った。
外は雨で、屋根を打つ音が絶え間なく続いている。焼けた薪の匂いと、湿った土の匂い。
「客誓期のことを、考えていました」セラフィーナは、炎を見つめたまま言った。「建国祭で、誓いを確かめる。あの日に、この結婚は、真のものになるか、終わるか、どちらかに」
「そうだ」
「あなたは、どちらを望んでおられますか」
問うてから、頬が熱くなった。踏み込みすぎたかもしれない。大公はしばらく黙り、それから、ぽつりと答えた。
「……降ろす気は、ない」
薪が、ぱちりと爆ぜた。
「そなたが、望まぬなら別だが。私は、そなたを――手放したくない」
顔を覚えられぬ男が、手放したくない、と言う。その言葉の重さを、セラフィーナは知っていた。彼にとって、掴めるものは、この世でただ一つ。それを手放したくないという告白は、命綱を手放したくないと言うに等しい。
けれど、と彼女は思う。それは呪いゆえの執着なのか、それとも別の何かなのか。区別のつかない甘さと心細さが、胸の中で溶け合った。
「わたしも」気づけば、そう答えていた。「終わらせたくは、ありません」
言ってから、自分の声が思いのほか熱を帯びていたことに、頬が火照った。政略で嫁いだはずの相手を、いつのまにか、こんなにも。炎の照り返しが、大公の頬をほのかに染めている。彼はそれ以上何も言わず、ただ、暖炉の火に薪を一本、足した。その手が、いつもより幾分、ぎこちなかった。
沈黙が、心地よかった。雨の音だけが、二人を包んでいる。言葉にしなくても伝わるものが、確かにそこにあった。
六日目、王都リュースが、地平の向こうに姿を現した。
白い石造りの街並みが、丘の斜面をびっしりと埋めている。中央に王宮の尖塔がそびえ、その周りに、無数の貴族の館が肩を寄せ合っていた。北の質実な城とは、まるで別の世界だ。着飾った馬車が行き交い、香水と、花と、権謀の匂いがする。
「ここが、戦場だ」大公が、幕を上げて外を見やった。「北では、誰もが私を敬ってくれる。だが、この街は違う。ここでは私は、悪名だけが先を歩く、招かれざる客だ」
その言葉どおり、王都に入った大公の馬車に向けられる視線は、冷たかった。すれ違う貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁く。「あれが、氷の大公」「妻の顔も覚えられぬという」「今年は、どう儀式を切り抜けるおつもりか」。
北の城では、領民が道端に膝をつき、慕わしげに大公を見送った。同じ男が、ここではまるで見世物のように、好奇と嘲りの目に晒されている。中央と北とで、これほどまでに姿が違う。セラフィーナは、その落差に胸を突かれた。人々は、噂という薄い皮だけを見て、その下の男を、少しも見ようとしない。
セラフィーナは、幕の隙間から、その街を見つめた。ここでは、大公の秘密は、いつ暴かれてもおかしくない。一つの取り違え、一つの失言が、命取りになる。だが同時に、思う。ここでこそ、証してみせたい。噂の下にいる、本当のこの人を。誰よりも人を忘れまいと、毎晩名簿を諳んじる、あの誠実な男を。
守り抜けるだろうか。北の城の、静かな共犯とは違う。ここには、無数の目と、無数の悪意がある。
大公邸は、北の城とは打って変わって華美だった。長く留守にしていたその館には、それでも先触れを受けた使用人たちが並び、二人を迎えた。けれどここでも、大公の秘密を守る仕組みは同じだ。使用人は色と立ち位置で己を示し、王都詰めの老家令が、ギデオンと同じ役目を担っている。
馬車が門をくぐろうとした、そのとき。
門の脇に、一台の立派な馬車が停まっているのが見えた。黒塗りの車体に、金糸で織り込まれた紋章。剣と天秤を組み合わせた意匠。軍務にまつわる家柄だ、とセラフィーナは直感した。誰かが、着いたばかりの二人を、わざわざ門前で待ち構えていた。
「あれは」大公の声が、低く沈んだ。「軍務卿の紋だ」
軍務卿。北境の軍権を、中央へ回収せよと十年唱え続けているという、大公家最大の政敵。その男の使いが、旅の埃も落とさぬうちに、もう門前に。
歓迎ではない。それだけは、考えるまでもなくわかった。王都での戦いは、館の敷居をまたぐ前から、もう始まっていた。




