表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/30

第10話 六日の密室

 王都への道は、六日かかった。

 揺れる馬車の中、向かい合って座る大公とセラフィーナの間で交わされるのは、甘い言葉ではなかった。

 「もう一度、確かめさせてください」セラフィーナは、膝の上で小さな帳面を開いた。「宮廷であなたに近づく主だった方々。まず、宰相のオルグレン公。恰幅がよく、右手にいつも印章の指輪。声はしわがれています」

 「オルグレン。指輪と、しわがれ声」大公が、低く繰り返す。

 「次に、財務卿のレーヴェ伯。痩せて背が高く、話すとき左肩が下がる癖があります。……この方は、あなたに好意的だと聞きました」

 馬車の車輪が石を踏むたび、二人の体が揺れる。革張りの座席と、埃と、馬の匂い。その狭い密室で、二人は来る戦いの支度を、一つずつ積み上げていった。

 顔を覚えられぬ夫のために、セラフィーナは人々を「特徴」で束ね直す。指輪、癖、声。大公はそれを、諳んじては胸に刻む。その繰り返しは、恋人たちの語らいには程遠く、けれど、どんな睦言よりも深く二人を結んでいた。互いの弱さと秘密を、共に背負うということ。それは、信頼と呼ぶよりほかにない何かだった。

 「合図を決めておきましょう」セラフィーナは提案した。「大勢の中で、あなたが誰かを取り違えそうなとき。わたしが扇を左手に持ち替えたら、その方の名を、わたしが先に呼びます。あなたは、それを聞いてから応じればいい」

 「……そなたは、こういうことに長けているな」大公が、感心したように呟いた。「戦場の伝令のようだ」

 「予備の娘は、いつも人の顔色を読んで生きてきましたから」なんでもないことのように、彼女は言った。「誰が機嫌を損ねているか、誰と誰が反目しているか。それを見抜けなければ、家の中で生き延びられませんでした」

 その言葉に、大公が目を伏せた。「……そなたも、戦の中を生きてきたのだな。私とは、別の戦場で」

 同じ欠落を抱えた二人。似た孤独をくぐってきた二人。馬車の揺れの中で、その事実だけが、静かに二人を温めていた。

 ギデオンは御者の隣で、王都の最新の噂を集めてきては、二人に伝えた。宮廷でいま誰が力を持ち、誰が大公家を敵視しているか。老従者の情報網は、この六日の旅でも、休むことなく張り巡らされていた。


 三日目の宿で、二人は暖炉の前に並んで座った。

 外は雨で、屋根を打つ音が絶え間なく続いている。焼けた薪の匂いと、湿った土の匂い。

 「客誓期のことを、考えていました」セラフィーナは、炎を見つめたまま言った。「建国祭で、誓いを確かめる。あの日に、この結婚は、真のものになるか、終わるか、どちらかに」

 「そうだ」

 「あなたは、どちらを望んでおられますか」

 問うてから、頬が熱くなった。踏み込みすぎたかもしれない。大公はしばらく黙り、それから、ぽつりと答えた。

 「……降ろす気は、ない」

 薪が、ぱちりと爆ぜた。

 「そなたが、望まぬなら別だが。私は、そなたを――手放したくない」

 顔を覚えられぬ男が、手放したくない、と言う。その言葉の重さを、セラフィーナは知っていた。彼にとって、掴めるものは、この世でただ一つ。それを手放したくないという告白は、命綱を手放したくないと言うに等しい。

 けれど、と彼女は思う。それは呪いゆえの執着なのか、それとも別の何かなのか。区別のつかない甘さと心細さが、胸の中で溶け合った。

 「わたしも」気づけば、そう答えていた。「終わらせたくは、ありません」

 言ってから、自分の声が思いのほか熱を帯びていたことに、頬が火照った。政略で嫁いだはずの相手を、いつのまにか、こんなにも。炎の照り返しが、大公の頬をほのかに染めている。彼はそれ以上何も言わず、ただ、暖炉の火に薪を一本、足した。その手が、いつもより幾分、ぎこちなかった。

 沈黙が、心地よかった。雨の音だけが、二人を包んでいる。言葉にしなくても伝わるものが、確かにそこにあった。


 六日目、王都リュースが、地平の向こうに姿を現した。

 白い石造りの街並みが、丘の斜面をびっしりと埋めている。中央に王宮の尖塔がそびえ、その周りに、無数の貴族の館が肩を寄せ合っていた。北の質実な城とは、まるで別の世界だ。着飾った馬車が行き交い、香水と、花と、権謀の匂いがする。

 「ここが、戦場だ」大公が、幕を上げて外を見やった。「北では、誰もが私を敬ってくれる。だが、この街は違う。ここでは私は、悪名だけが先を歩く、招かれざる客だ」

 その言葉どおり、王都に入った大公の馬車に向けられる視線は、冷たかった。すれ違う貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁く。「あれが、氷の大公」「妻の顔も覚えられぬという」「今年は、どう儀式を切り抜けるおつもりか」。

 北の城では、領民が道端に膝をつき、慕わしげに大公を見送った。同じ男が、ここではまるで見世物のように、好奇と嘲りの目に晒されている。中央と北とで、これほどまでに姿が違う。セラフィーナは、その落差に胸を突かれた。人々は、噂という薄い皮だけを見て、その下の男を、少しも見ようとしない。

 セラフィーナは、幕の隙間から、その街を見つめた。ここでは、大公の秘密は、いつ暴かれてもおかしくない。一つの取り違え、一つの失言が、命取りになる。だが同時に、思う。ここでこそ、証してみせたい。噂の下にいる、本当のこの人を。誰よりも人を忘れまいと、毎晩名簿を諳んじる、あの誠実な男を。

 守り抜けるだろうか。北の城の、静かな共犯とは違う。ここには、無数の目と、無数の悪意がある。

 大公邸は、北の城とは打って変わって華美だった。長く留守にしていたその館には、それでも先触れを受けた使用人たちが並び、二人を迎えた。けれどここでも、大公の秘密を守る仕組みは同じだ。使用人は色と立ち位置で己を示し、王都詰めの老家令が、ギデオンと同じ役目を担っている。

 馬車が門をくぐろうとした、そのとき。

 門の脇に、一台の立派な馬車が停まっているのが見えた。黒塗りの車体に、金糸で織り込まれた紋章。剣と天秤を組み合わせた意匠。軍務にまつわる家柄だ、とセラフィーナは直感した。誰かが、着いたばかりの二人を、わざわざ門前で待ち構えていた。

 「あれは」大公の声が、低く沈んだ。「軍務卿の紋だ」

 軍務卿。北境の軍権を、中央へ回収せよと十年唱え続けているという、大公家最大の政敵。その男の使いが、旅の埃も落とさぬうちに、もう門前に。

 歓迎ではない。それだけは、考えるまでもなくわかった。王都での戦いは、館の敷居をまたぐ前から、もう始まっていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ