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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第11話 正論という刃

 軍務卿ヴェルナー侯爵は、脅しも嫌味も使わなかった。

 旅装を解く間もなく通された客間で、その男は、まるで旧知の友を訪ねたかのように穏やかに微笑んでいた。五十がらみ。銀の混じった髪をきちんと撫でつけ、仕立てのよい深緑の上衣をまとっている。声は低く、よく通り、聞く者を安心させる響きがあった。

 セラフィーナは大公の隣に座し、密かにその特徴を頭に刻んだ。左の眉に、薄い古傷。指を組むとき、必ず右の親指を上にする。声は滑らかで、抑揚が説教師じみている。

 「長旅、お疲れでしょう」侯爵は、茶器を手に取りながら言った。「北境から王都まで六日。その六日の距離こそが、私の憂いの種でしてな、ノルディア卿」

 「憂い、とは」大公の声は、氷のように平坦だった。

 「北境の軍権が、中央からあまりに遠いことです」侯爵は茶を一口含み、ゆっくりと続けた。「万一、北の守りに何か綻びが生じても、王都が気づくのは六日後。これは国防上、看過しがたい。ゆえに私は長年、北境軍権を中央の直轄へ移すべしと訴えております。もちろん、貴殿への他意はございません。国のため。ただ、それだけのこと」

 国のため。その一言に、セラフィーナは背筋が寒くなった。


 これが、正論の刃なのだ。

 侯爵は、大公個人を憎んでいるふりすらしない。「国のため」という、誰も表立って反論できぬ大義を掲げて、じわじわと北境の軍権を削り取ろうとしている。宮廷では、この論こそが多数派なのだろう。大公が持つのは、北を守り抜いてきたという実績と、口にできぬ秘密だけ。武器の重さが、あまりに釣り合わない。

 「北の守りに、綻びはない」大公は短く答えた。「十年、一度たりとも帝国を越境させておらぬ」

 「ええ、ええ。貴殿の武勲は存じております」侯爵はにこやかに頷いた。「北境戦役の折、たった一人で戦局を覆されたという英雄譚も。……もっとも、あの戦の詳しい仔細は、今や知る者も少のうございますがな」

 その一言に、大公の指がかすかに動いた。セラフィーナだけが気づく、ごく小さな反応。戦の仔細――それは、大公が呪いを負った、あの瞬間のことだ。侯爵は、それをどこまで知っているのか。

 「ただ」侯爵は茶器を置き、ふいに探るような目を向けた。「近頃、妙な噂を耳にしましてな。北の大公は、挨拶を交わした相手の顔さえ、翌日には忘れてしまわれると。まさか、そのようなお方に北の兵を委ねておいて、よいものかと案じる声が、宮廷にはございます」

 来た。

 セラフィーナの指が、膝の上でこわばった。侯爵は、噂を餌にして、大公の反応を測っている。ここで大公が少しでも動揺を見せれば、それが秘密の証拠にされる。


 「侯爵さまは、噂を集めるのがお好きなのですね」

 凍りつきかけた空気に、セラフィーナは澄んだ声を差し込んだ。にこやかに、けれど一歩も退かずに。

 「北の城には、こんな言い伝えがございます。『人の値打ちを、噂で測る者は、自らの値打ちも噂で測られる』と。……大公様は、家臣一人ひとりの功も過ちも、決してお忘れになりません。それを『顔を忘れる』などと言い換える方がいるとすれば、よほど大公様に、忘れてほしい何かをお持ちなのでしょう」

 侯爵の微笑が、ほんの一瞬、固まった。

 言い返しではない。ただ、噂を弄ぶ者への、静かな一刺し。しかも「忘れてほしい何か」――それは奇しくも、ギデオンが追う「禁呪を手引きした内通者」の影を、そうとは知らずに撫でていた。

 「……面白い奥方をお迎えになった」侯爵は、すぐに笑みを取り戻した。けれどその目の奥に、値踏みするような冷たい光が差したのを、セラフィーナは見逃さなかった。「では、私はこれで。建国祭で、またお会いしましょう。臣従の礼で、な」

 臣従の礼。顔を確かめ合う、あの儀式の名を、侯爵はことさらゆっくりと発音した。そこで待っている、とでも言うように。


 侯爵が去ったあと、客間には重い沈黙が残った。

 「あの男は、気づいている」大公が低く言った。「秘密の輪郭に、確実に手をかけている」

 「ええ。けれど、確信はまだ持っていません」セラフィーナは、侯爵の去り際の目を思い返しながら言った。「もし確信していれば、今日この場で暴いていたはずです。あの方は、証を欲しがっている。あなたが人前で誰かを取り違える、その決定的な瞬間を」

 「よく見ているな」大公が、感嘆と苦さの混じった声を漏らした。「私には、あの男の顔すら、明日には分からぬというのに」

 「だから、わたしがいます」セラフィーナは静かに答えた。「あの侯爵の顔は、もう覚えました。左の眉の古傷も、親指の癖も。次にどこで会っても、わたしがあなたに教えます」

 その言葉に、大公の張り詰めた肩から、わずかに力が抜けた。守られる側だったはずの男が、今、妻の一言に支えられている。奇妙な、けれど確かな逆転がそこにあった。

 「そして、臣従の礼で決着をつけるつもりでしょう」セラフィーナは続けた。「あの場で、あなたに顔の照合を強いて」

 そのとき、控えていたギデオンが、静かに口を開いた。皺深い顔が、いつになく硬い。

 「奥方様。先ほどの『忘れてほしい何か』――あの一言、侯爵はひどく気にしておりました」老従者の声が、低く沈む。「私が追う内通者。禁呪を帝国へ手引きした者。……その影が、あの侯爵に重なるのではないかと、私はここ数年、睨んでおります」

 セラフィーナは、息を呑んだ。

 大公に呪いを負わせた張本人が、その呪いを口実に、大公を裁こうとしている。もしそうなら、これはただの政争ではない。もっと昏い、十年越しの企みだ。

 「証は、まだないのですね」セラフィーナは確かめた。

 「ございません」ギデオンは重く頷いた。「あの男は、痕跡を消すのに長けております。手引きの証となる書付も、証人も、この十年で次々と姿を消しました。……ですが、一つだけ、まだ生きている糸がございます。当時、侯爵の下で密使を務めた者。その男が、今も北の辺境に隠れ暮らしていると」

 細い、けれど確かな糸。それを手繰り寄せられれば、正論の刃を、そっくり侯爵自身へ返せるかもしれない。

 「時が要ります」ギデオンが言った。「建国祭まで、あと二月あまり。それまでに、証を掴めるかどうか」

 窓の外、王都の夕闇が、じわりと濃くなっていく。守るべき秘密と、暴くべき真実。二つの時計が、同じ建国祭の日へ向かって、静かに時を刻み始めていた。


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