第12話 どちらが妻でも
社交界デビューの日取りは、あわただしく迫っていた。
王都に着いた大公夫妻が最初に招かれるのは、宮廷に名の知れた某侯爵夫人の夜会。そこで顔見せを済ませねば、以後の社交はままならない。そして大勢の貴族が集うその場こそ、大公にとって最初の大きな関門だった。
「もう一度、手順を確かめましょう」
大公邸の一室で、セラフィーナは扇を手に、王都詰めの老家令とギデオンを相手に段取りを繰り返した。
「わたしは、常にあなたの右斜め後ろに控えます。どなたかが挨拶に来られたら、わたしがまず『まあ、オルグレン公』というふうに、お名前を添えてお迎えします。あなたは、それを聞いてから応じてください」
「扇を左手に持ち替えたら、だな」大公が確かめる。
「はい。それは『わたしにも、その方が誰か分からない』という合図です。そのときは、当たり障りのない言葉でしのいで、時を稼いでください。その間に、ギデオンかわたしが、必ず特徴を掴みます」
三人は、幾度も手順を繰り返した。誰がどこに立ち、どう囁き、どう受けるか。まるで戦の陣立てのように。人の顔を覚えられぬ男を、大勢の中で「取り違えぬ将」に見せるための、緻密な布陣だった。
「……こんなにも」大公が、ふと呟いた。「こんなにも人に支えられて、私は将であり続けている。一人で立っているつもりで、その実、皆に立たせてもらっているのだな」
その声に自嘲はなく、ただ、静かな感謝があった。
「支え合うのは、恥ではありません」セラフィーナは扇を畳みながら言った。「わたしは、あなたを支えるために、生まれて初めて『役に立っている』と感じられます。……予備の娘だったわたしが、誰かにとって、なくてはならない者になれる。それが、どれほど嬉しいことか」
言ってから、頬が熱くなった。本音が、するりと零れてしまった。大公はしばらく彼女を見つめ、それから、ぶっきらぼうに顔を背けた。その耳が、わずかに赤い。氷の大公の、隠しきれない照れだった。
傍らで、老家令とギデオンが、そっと目を見交わして微笑んだ。政略で結ばれたはずの二人の間に、いつのまにか芽生えているものを、古参の従者たちは、静かに見守っていた。
その夜、実家からの手紙が届いた。
差出人は、姉リゼット。セラフィーナは蝋の封を割り、灯りの下で文面を追った。そして、指先が冷たくなった。
――久しぶりの再会を楽しみにしております。あなたが立派な大公妃になられたと聞いて、姉はとても誇らしく思っておりますのよ。近々、王都のお邸へ伺わせてくださいな。
甘い言葉が、上品な字で連ねられている。けれど、その末尾に、こう添えられていた。
――もし北の暮らしがあなたに重すぎるようなら、いつでも姉を頼りなさい。顔を覚えられぬ旦那様なら、どちらが妻でも、お気づきにはなりますまい。
どちらが妻でも。
セラフィーナは、手紙を握りしめた。姉は、本気で入れ替わりを狙っている。大公妃という座を、器量よしの自分にこそふさわしいと信じて。そして、その企ての土台にあるのは、あの残酷な思い込みだ――顔を覚えられぬ夫なら、妹と姉を、見分けられはしない。
姉は知らない。この夫が、他の誰を取り違えても、セラフィーナだけは決して間違えないことを。皮肉なことだった。姉が最も侮っている「顔を覚えられぬ」という弱みこそが、姉の企みを最初から無効にしている。
幼い頃を、ふと思い出した。姉はいつも、妹の持ち物を「似合うのはわたくしのほう」と取り上げた。人形も、菓子も、青い上着も。そして周りの大人は、それを当然のこととして許した。セラフィーナは「予備」で、姉の付属品で、いつでも取り替えのきく存在だったから。あの頃の自分なら、この手紙にも、ただ黙って従っていただろう。姉の望むまま、席を譲って。
けれど、もう違う。守りたい人が、できた。譲れないものが、できた。
「今度ばかりは、姉様の思い通りにはなりません」小さく、けれど確かに、彼女は声に出した。
油断はできない。姉は美しく、如才なく、目的のためなら手段を選ばない。その背後に、もし侯爵の影でも絡めば、企みはただの姉妹喧嘩では済まなくなる。
「浮かない顔だな」
大公が、いつのまにか戸口に立っていた。セラフィーナは慌てて手紙を伏せようとして、思い直した。隠すのは、二人で決めた道に反する。
「姉が、王都へ来るそうです」彼女は手紙を差し出した。「わたしと、入れ替わるつもりで」
大公は文面に目を落とし――読み終えると、静かに手紙を卓へ置いた。
「くだらぬ」ひどく平坦な声だった。「入れ替われるものなら、入れ替わってみればいい。私は、そなたを、姉と間違えたことなど一度もない。これから先も、ない」
その断言に、胸の奥が熱くなった。世の誰もが「同じ」と見なす姉妹を、この人だけは、決して混同しない。
「なぜ、そう言い切れるのですか」問わずにはいられなかった。「あなたは、他の方の顔を、覚えていられないのに。なぜ、わたしだけを」
「わからぬ」大公は正直に答えた。それから、少しためらって、続けた。「ただ……そなたを見ると、思い出しそうになる。何を、とは言えぬ。ずっと昔に、確かに大切だった何かを。……気のせいかもしれぬ。だが、その感覚だけは、十年、消えたことがない」
ずっと昔に、大切だった何か。
セラフィーナの脳裏を、また、あの冬がよぎった。冷たい水。血の匂い。名も知らぬ、若い男。二つの記憶が、まだ像を結ばぬまま、また一歩、近づいた気がした。
「大公様も、感じるのですね。その……昔の、大切な何かを」
「そなたにも、あるのか」大公が、意外そうに振り返った。
「わかりません。ただ、あなたの傍にいると、時折、遠い冬の匂いを思い出すのです」
二人はしばし、見つめ合った。互いの中に眠る、名も像もない記憶。それが同じ一点を指しているのかもしれないという予感は、まだ、言葉にするには淡すぎた。けれど、確かにそこにある。二人を最初から結びつけていた、細い、見えない糸のように。
「明後日だな」大公が、話を戻すように言った。「戦場だ」
「ええ」セラフィーナは頷き、扇を握り直した。姉の企み、侯爵の罠、そして解けぬ謎。それらすべてを抱えて、二人は王都の華やかな戦場へ、足を踏み入れることになる。
窓の外では、王都の灯りが、宝石を撒いたように瞬いていた。その一つ一つの下に、いくつもの思惑が息を潜めている。




