第13話 嘘を見抜く目
夜会は、まばゆかった。
無数の蝋燭が水晶の燭台に揺れ、磨かれた大理石の床に光が溢れている。薔薇と白粉と、甘い菓子の匂い。楽師の奏でる旋律の中を、着飾った貴族たちが、優雅に、そして油断なく渦を巻いていた。
大公とセラフィーナが姿を現すと、その渦が、さざ波のように乱れた。
「あれが、氷の大公……」
「妻の顔も覚えられぬというのに、よく人前に出られること」
「連れているのは、田舎伯爵家の予備の娘だとか。妃の器ではないでしょうに」
扇の陰の囁きは、容赦がなかった。セラフィーナは背筋を伸ばし、聞こえぬふりで微笑を保った。俯くな。ここで俯けば、この人の妻としての格が、そのまま値踏みされる。
挨拶に来る貴族たちを、彼女は手はず通りにさばいていった。「まあ、オルグレン公。ご壮健で何よりです」――名を添えて迎えれば、大公はそれを受けて、淀みなく応じる。二人の呼吸は乱れなかった。誰の目にも、大公夫妻は睦まじく、そつのない一対に映ったはずだ。
それでも、気の抜ける瞬間は一度もなかった。次から次へと近づいてくる着飾った人々。その一人ひとりを、セラフィーナは声と、装いと、歩き方で瞬時に見分け、大公の耳へ滑り込ませる。宰相の印章の指輪。財務卿の下がる左肩。誰それの香水の匂い。まるで、目の見えぬ人の手を引いて、賑わう市場を渡っていくようだった。
大公も、必死だった。彼女の囁きを一言も聞き逃すまいと、常に神経を張り詰めている。二人の間に流れるのは、恋人たちの甘い緊張ではなく、戦場を渡る者たちの、痛いほど張り詰めた集中だった。それでも、否、だからこそ、その連帯は、どんな睦言よりも深く二人を繋いでいた。
「少し、休むといい」隙を見て、大公が低く言った。「そなたの目が、疲れている」
自分のことより、妻の疲れに気づく。その一言に、セラフィーナは小さく首を振った。「まだ、平気です。それより――」
言いかけたとき、彼女の耳が、別の会話を捉えた。
異変は、婦人たちの談笑の輪で起きた。
セラフィーナが茶菓の卓のそばに控えていると、近くで一人の貴婦人が、声高に話しているのが耳に入った。豪奢な真紅のドレスに、大ぶりの真珠。その女は、さも見てきたように語っていた。
「レーヴェ伯が、王家の御料林で密かに狩りをなさっているのですって。先の新月の夜、こっそりとね。証人もおりますのよ」
周囲の婦人たちが、扇の陰で目を見交わす。レーヴェ伯。財務卿で、大公に好意的だと聞いた、あの痩せた背の高い人物。その名を貶める噂が、今、この場でばらまかれようとしている。
セラフィーナの目が、細部を拾った。
新月の夜。御料林。証人。
「失礼ですが」気づけば、彼女は穏やかに口を挟んでいた。「先の新月の夜、と仰いましたか」
真紅の貴婦人が、不快げに振り返る。「ええ、そう申しましたけれど」
「それは、おかしゅうございますね」セラフィーナは小首をかしげた。「先の新月の夜、レーヴェ伯は、王宮の財務評議に出ておられました。夜通しの評議で、翌朝まで席を立たれなかったと、こちらのオルグレン公が先ほど話しておられましたわ。……ねえ、公?」
水を向けられた宰相オルグレンが、「うむ、確かにあの夜は」と頷いた。
真紅の貴婦人の顔が、みるみる強張っていく。作り話の綻びが、衆目の前で露わになった瞬間だった。
セラフィーナは、追い打ちをかけなかった。
ただ、静かに微笑んで、菓子の皿を勧めた。「王都の噂は、恐ろしゅうございますね。夜の話は、日を跨ぐと、まるで別のものになってしまう。……お互い、気をつけたいものですわ」
それは、糾弾ではなかった。けれど、その場にいた誰もが理解した。この大公妃は、口先だけの噂を、事実の細部で難なく崩す目を持っている。侮ってかかれば、自分が恥をかく。
真紅の貴婦人は、そそくさと輪を離れていった。残された婦人たちの、セラフィーナを見る目が、明らかに変わっていた。好奇と侮りから、警戒と、かすかな敬意へ。
「見事だった」大公が、そっと隣に来て囁いた。「私には、あの女の顔も、明日には分からぬ。だが、そなたが今、何をしたかは、生涯忘れぬ」
その低い声に、胸が温かくなる。顔を覚えられぬ人が、忘れぬと言ってくれる。それは、どんな賛辞よりも、彼女の心に深く刻まれた。
「なぜ、レーヴェ伯を庇ったのだ」大公が問うた。「あの者とは、まだ言葉も交わしておらぬのに」
「あの方は、あなたに好意的だと聞きました。数少ない、味方になりうる方です」セラフィーナは扇の陰で答えた。「それに、あの噂の作り方が、気に入りませんでした。事実の間に、たった一つ嘘を混ぜる。人を陥れるのに、いちばん質の悪いやり方です。ああいうものを、放っておけないのです」
人を、見た目や噂で決めつける。都合よく、取り替えのきく駒として扱う。それは、彼女自身がずっとされてきたことだった。だからこそ、細部を握りつぶして人を貶める手口を、見過ごせなかった。
大公は、しばらく彼女を見つめていた。仮面のない、剥き出しの眼差しで。「そなたは……時折、私の知らぬ誰かに、よく似た顔をする」
「誰に、ですか」
「わからぬ」彼は静かに首を振った。「だが、その顔を見ると、胸の奥が、妙に騒ぐ」
その言葉に、セラフィーナの鼓動が、また一つ、跳ねた。
けれど、華やかな広間の片隅から、その一部始終を、冷たく見つめる目があった。
軍務卿ヴェルナー侯爵。彼はワイングラスを傾けながら、大公夫妻を、正確にはセラフィーナを、じっと観察していた。
「なるほど。あの妻が、大公の目というわけか」
侯爵の唇が、薄く笑みの形に歪む。大公の秘密を支えているのは、あの観察眼の鋭い妻だ。ならば、崩す方法は一つ。あの妻を、大公から引き離せばいい。妻の助けが届かぬ場で、顔を確かめさせればいい。
これまで、彼は大公を焦って追い詰めすぎぬよう気をつけてきた。噂だけでは、あの誇り高い男を失脚させられない。必要なのは、衆目の前での、動かぬ証。大公が人を取り違える、その決定的な瞬間だ。そしてそれを引き出す鍵が、皮肉にも、あの聡明な妻を排除することにある。
華やぎの奥で、次の罠が、静かに形をとり始めていた。楽の音も、笑い声も届かぬ場所で、一人の男の思惑だけが、冷たく研ぎ澄まされていく。




