第14話 氷が、妻を守る
社交界に、大公妃セラフィーナの名が、少しずつ知られ始めた。
噂話の綻びを難なく見抜いた「北の大公妃」。侮ってかかれば恥をかく、油断ならぬ女。その評判は、彼女を守る鎧にもなり、同時に、標的にもした。
数日後、王宮で催された大夜会。
その夜、セラフィーナは大公に手を取られ、初めて広間の中央で踊った。北の城には、舞踏など無縁だった。ぎこちない足取りを、大公が辛抱強く支える。「右、次は左」と、彼女がかつて人の名を囁いたように、今度は大公が、そっと足運びを導いた。役割が、ふと入れ替わる。その小さな逆転が、くすぐったくて、温かかった。
「上手いものだ」大公が、目元をわずかに緩めた。
「あなたが、上手に導いてくださるからです」
束の間の、穏やかな時間だった。けれど、その温もりを引き裂くように、侮辱は一線を越えた。
発端は、酒に酔った一人の若い伯爵だった。日頃から大公家を軽んじる中央貴族の一人で、侯爵派に連なる男でもある。彼は大勢の前で、わざと声を張り上げた。
「北の大公妃どのは、たいそう目がお利きになるそうだ。なにしろ、旦那様の代わりに人の顔を見分けてやらねばならんのだからな!」
どっと、下卑た笑いが起きた。
「気の毒なことだ。妻の顔さえ覚えられぬ夫を持つとは。いや、そもそも大公は、今この場に、どなたが自分の妻か、お分かりなのかな?」
場の空気が、ひやりと凍った。それは、ただの侮辱ではなかった。大公の秘密の核心を、公衆の面前で、名指しにする言葉だった。
セラフィーナの背に、冷たい汗が伝った。ここで大公が動揺すれば、あるいは彼女を探して視線をさまよわせれば――それが証拠になる。庇おうと自分が動けば、「妻が助けている」と露見する。進むも退くも、罠だった。
だが、大公は動じなかった。
彼は、ゆっくりと若い伯爵のほうへ歩み出た。そして、まっすぐにセラフィーナのもとへ来ると、その肩を、静かに抱き寄せた。
迷いのない足取りだった。誰の合図もなく、扇の仕草もなく。大勢の中から、彼はただ一人、妻を選び取った。
「私の妻は、ここにいる」
低く、けれど広間の隅々まで届く声だった。「顔を覚えるのに、目は要らぬ。私は、この者を魂で知っている。取り違えることなど、天地がひっくり返ってもない。それとも卿は、自分の妻を、大勢の中から選び出す自信が、おありか?」
若い伯爵が、言葉に詰まった。実のところ、この男は先日、自邸の夜会で、酔った末に他家の夫人を妻と取り違えて醜聞になったばかりだった。その噂を知る者たちが、くすくすと笑い始める。侮辱の刃は、投げた本人へと、そっくり返っていった。
「わ、私はただ、戯れを……」
「戯れで、人の妻を辱めるか」大公の声が、氷点下まで冷えた。「北の兵は、戯れで剣を抜かぬ。抜けば、必ず相手を斬る。……覚えておくがいい」
その一言に、若い伯爵の顔から、血の気が引いた。周囲の貴族たちも、口をつぐむ。冷酷無情と噂された男の凄みが、初めて、悪意ある嘲笑を黙らせた。
凍りついた沈黙のあと、どこからか、感嘆のため息が漏れた。冷酷無情と噂された氷の大公が、人前で、これほど堂々と妻を庇う。その姿は、噂とはあまりにかけ離れていた。
「なんて、仲がよろしいこと」
「氷の大公にも、あんな顔ができるのね」
囁きの色が、変わっていた。侮りから、羨望へ。この夜、王都の一部は初めて、噂の下にいる本当の大公を、垣間見たのだ。
セラフィーナは、大公の腕の中で、震えそうになる声を抑えた。
「……よろしかったのですか。あんなに、はっきりと」
「かまわぬ」大公は、彼女だけに聞こえる声で答えた。「そなたを侮る言葉を、黙って聞いてはおれぬ。秘密を守ることよりも、そなたを守ることのほうが、私には大事だ」
その言葉が、胸の奥深くへ落ちていった。秘密を何より恐れてきた人が、その秘密を賭けてでも、自分を守ると言う。政略の妻ではなく、一人の女として。
顔が、熱くなる。俯きそうになるのを、必死にこらえた。
「……危険なことを、なさいました」ようやく、そう返すのがやっとだった。「あれほど堂々と庇えば、『大公は妻だけは見分けられる』と、侯爵に教えるようなものです」
「かまわぬと言った」大公は、彼女の肩を抱く手に、わずかに力を込めた。「そなたを『どちらか分からぬ女』のように扱われるくらいなら、いっそ、そなただけは間違えぬと、世に知らしめてやりたい。……それの、何が秘密だ。私にとっては、ただの事実だ」
ただの事実。彼にとって、セラフィーナを間違えないことは、隠すべき弱みではなく、誇るべき真実なのだ。その受け止め方の温度に、彼女は不覚にも、目の奥が熱くなった。
取り替えのきく娘だと言われ続けた自分を、この人は、大勢の前で「たった一人の妻」だと言い切った。誰にも見分けられなかった娘が、この人の前でだけは、世界でいちばん見分けられやすい存在になっている。その逆転が、じんと胸に沁みた。
けれど、その温かな一幕を、広間の柱の陰から見つめる、冷たい目があった。
ヴェルナー侯爵は、ワイングラスの縁を指でなぞりながら、薄く笑っていた。
大公が妻を庇った。人前で、はっきりと。――結構なことだ、と侯爵は思った。あれほど妻に頼りきっているなら、その妻を引き剥がしてやればいい。妻の目も、老従者の耳打ちも届かぬ場所で、大公にただ一人、顔の海の中に立たせてやる。
「仮面舞踏会が、よかろうな」侯爵は、誰にともなく呟いた。「顔を隠す夜だ。あの男には、さぞ堪えるだろう」
そして侯爵の脳裏には、もう一つの手駒があった。数日前、ひそかに彼のもとを訪ねてきた、あの美しい令嬢。大公妃の姉だという女は、妹の座を欲しがっていた。顔を隠す夜に、妹と入れ替わりたいのだと。
「利用できるものは、何でも使うとしよう」侯爵は、ワインを飲み干した。「あの姉が妹に成り代わり、大公がそれを見抜けねば――衆目の前で、化けの皮が剥がれる。妻を欲しがる娘と、証を欲しがる私。互いに、都合のよい取引だ」
華やぎの奥で、処刑台の設計図が、静かに引かれ始めていた。二月後の建国祭を待つまでもなく、次の罠は、もう、すぐそこまで迫っていた。




