第15話 顔を試す夜
仮面舞踏会の招待状が届いたのは、大夜会から数日後のことだった。
差出人は、宮廷でも指折りの名家。断れば角が立つ。けれど招待状を検めたギデオンの顔は、みるみる曇っていった。
「奥方様。この催しの後ろ盾に、ヴェルナー侯爵の名がございます」老従者は声を落とした。「顔を隠す舞踏会。……大公様にとって、これほど不利な場はございません」
仮面。それは、人を見分ける手がかりを、根こそぎ奪う。声も、装いも似せられれば、大公が頼れるものは、ほとんど残らない。
「行かねばなるまい」大公は静かに言った。「逃げれば、それこそ弱みを認めることになる」
セラフィーナは、扇を握りしめた。「わたしが、必ずお傍にいます。仮面をつけていても、声と背格好で、どなたか分かるように努めます」
こうして二人は、狼の口の中へ、自ら歩み入ることになった。
舞踏会の夜。
出立の前、セラフィーナは大公の仮面を、自らの手で結んでやった。漆黒の、狼を象った仮面。紐を結ぶ指先が、わずかに震える。
「怖いか」大公が、静かに問うた。
「あなたのことが、心配なだけです」正直に、彼女は答えた。「今夜だけは、どうか、わたしから目を離さないでください。何があっても」
「案ずるな」大公は、彼女の手をそっと握った。「たとえ千の仮面の中でも、私はそなたを見失わぬ。……それだけは、この十年で唯一、確かなことだ」
その言葉を胸に刻んで、二人は馬車に乗り込んだ。
広間は、色とりどりの仮面で埋め尽くされていた。金の狐、銀の梟、羽根飾りの鳥。誰もが顔の半分を隠し、素性を伏せて、艶やかに踊っている。香油と蝋と、熱を帯びた人いきれ。その中で、大公の横顔は、いつになく張り詰めていた。
案の定、罠は仕掛けられていた。
次々と、仮面の貴族が大公に近づいては、名乗らずに話しかけてくる。「お久しゅうございます、大公」「先日の件、いかがでしたか」。どれも、相手が誰か分からねば答えようのない問いだった。似た背格好の者が、わざと入れ替わり立ち替わり現れる。侯爵の手の者だ。
セラフィーナは懸命に、声の特徴を拾って囁いた。「今のは、ハーツ子爵。しわがれ声です」「次の方は、わかりません。当たり障りなく」。大公は、それを頼りに、辛うじて凌いでいく。額に、うっすらと汗が滲んでいた。
仮面の下で、彼がどれほど神経をすり減らしているか、セラフィーナには痛いほどわかった。声も装いも似せられたこの海の中で、頼れる手がかりは、ほとんど何もない。それでも彼は、逃げなかった。一歩も退かず、氷の仮面を保ち続ける。その気丈さが、かえって胸を締めつけた。
「大丈夫ですか」人の絶えた隙に、そっと囁く。
「そなたが、いてくれる」大公は短く答えた。それだけで、十分だとでもいうように。「一人でないというのは……こういうことなのだな。十年、知らなかった」
その一言に、応える間もなかった。次の仮面が、もう近づいてくる。二人は再び、息を合わせて、偽りの海を渡り始めた。
だが、敵はセラフィーナ自身を狙ってきた。
ふいに、数人の令嬢たちが、彼女を取り囲むように話しかけてきたのだ。「大公妃さま、ぜひあちらの噴水を」「まあ、その扇、どちらでお求めに?」。巧妙に、じわじわと、大公から引き離そうとする流れ。
しまった、と気づいたときには、人波に阻まれ、大公の姿が遠くなっていた。
その隙を、敵は逃さなかった。
大公の前に、一人の仮面の男が進み出るのが見えた。恰幅のよい体つき。けれどセラフィーナには、その男が誰か、遠目にもわかった。声の届かぬこの距離で、大公はどう凌ぐのか。
彼女は、とっさに扇を高く掲げた。二人で決めた合図とは違う。けれど、大公が、その動きに気づく。そして彼女は、通りかかった給仕にわざと声をかけた。「まあ、オルグレン公はどちらかしら。銀髪で、印章の指輪の」。わざと、その場に響く声で。
その一言が、人波を越えて、大公の耳に届いた。目の前の恰幅のよい男。銀髪に、印章の指輪。大公は、確信を得た声で応じた。「オルグレン公か。壮健そうで何よりだ」
仮面の男が、わずかにたじろいだ。図星だった。
遠く離れていても、二人の呼吸は、細い糸で繋がっていた。
第一波は、辛うじて凌いだ。
けれど、広間の奥で、侯爵が満足げに頷くのが見えた。まるで、これは前座に過ぎぬとでも言うように。
やがて、楽師が新しい曲を奏で始めた。仮面の群れが、いっそう深く入り乱れる。そのざわめきの中で、セラフィーナは、ふと嫌な予感に襲われた。
人垣の向こうに、見覚えのある背格好が、ちらりと見えた。自分と、寸分違わぬ仕立てのドレス。同じ色の仮面。まるで、鏡に映したような錯覚。
姉。リゼットが、この会場にいる。しかも、自分と同じ装いで。
あの手紙は、ただの脅しではなかった。姉は、周到に準備していたのだ。舞踏会の招待も、揃いのドレスも、すべては侯爵の罠に乗じて、妻の座を奪い取るために。顔を隠すこの夜こそ、姉にとって、千載一遇の好機だった。
背筋が、冷たくなった。侯爵の罠と、姉の企みが、今、この仮面の夜に、一つに結びつこうとしている。顔を隠すこの場で、姉は妻に成り代わり、その隙に大公が「妻」を取り違えれば、侯爵は、待ち望んだ証を手に入れる。二つの悪意が、みごとに噛み合っていた。
「大公様!」
叫んでも、楽の音にかき消される。セラフィーナは、人波をかき分け、大公のもとへ急ごうとした。だが、色とりどりの仮面が、次々と行く手を阻む。まるで、そうと示し合わせたように。誰が敵か、誰が味方か、もう分からない。ギデオンの姿も、いつのまにか人垣に呑まれて見えなくなっていた。
助けの手も、囁きも届かない。大公は今、たった一人だ。
仮面の海の中で、寸分違わぬ二人の「妻」が、それぞれ大公のもとへ、近づいていく。顔も、声も、装いも同じ。常人には、決して見分けられない。
残された最後の頼みは、ただ一つ。「私だけは、間違えない」という、あの人の言葉だけだった。
その言葉は、この絶体絶命の夜に、本当に真実であってくれるのか。セラフィーナの心臓が、痛いほど鳴っていた。




