第16話 冬の匂い
仮面の海の中で、大公は迷わなかった。
寸分違わぬ装いの二人の女が、左右から近づいていく。片方は本物のセラフィーナ、片方は姉リゼット。顔も、髪も、ドレスの色も同じ。常人には、決して見分けられない。
だが、大公はふと足を止め、ためらいなく右側の女――セラフィーナのほうへ、手を差し伸べた。
「遅かったな。捜したぞ」
その一言に、リゼットの足が、凍りついたように止まった。仮面の下で、姉の顔が強張るのが、セラフィーナには手に取るように分かった。近づけば見抜かれる。それを悟った姉は、悔しげに身を翻し、人波の中へ紛れていった。今宵の企ては、公にされる前に、静かに潰えた。
「……どうして、分かったのですか」大公の腕にすがりながら、セラフィーナは囁いた。「顔も、装いも、同じだったのに」
「わからぬ」大公は正直に答えた。「ただ、右のそなたを見た瞬間、迷いが消えた。左の女は、ただの他人だった。それだけだ」
理屈ではない。彼の中の何かが、セラフィーナだけを、確かに指し示す。その不思議を、二人はまだ、言葉にできずにいた。
広間の奥では、ヴェルナー侯爵が、苦々しげに眉を寄せていた。せっかく仕込んだ替え玉が、公にされる前に潰えたのだ。姉のしくじりを、侯爵は冷ややかに見ていた。だが、その目に諦めの色はない。今宵はあくまで、小手調べ。本命の罠は、まだこれからだと言わんばかりに。
セラフィーナも、それを感じ取っていた。今夜の勝利は、辛うじて摑んだもの。しかも、大公が「妻だけは見分けられる」ことを、侯爵にまた一つ、印象づけてしまった。守るほどに、秘密の輪郭が、少しずつ露わになっていく。この綱渡りは、いつまで続けられるのか。
舞踏会を辞して、大公邸に戻った頃には、夜も更けていた。
張り詰めていた気がほどけ、セラフィーナは深く息を吐いた。仮面の夜の緊張が、まだ指先に残っている。大公が、暖炉に薪をくべた。爆ぜる火の粉が、赤く舞う。
「今宵は、そなたに助けられてばかりだった」火を見つめたまま、大公が言った。「私は、一人では何もできぬ。……情けない話だ」
「そんなことは、ありません」セラフィーナは、彼の隣に腰を下ろした。「今夜、姉を見抜いたのは、あなた自身です。わたしは、何もしていません。あなたの中の何かが、わたしを選んでくれた。……それは、あなただけの力です」
大公が、こちらを向いた。炎の照り返しが、その頬を橙に染めている。
しばらく、二人は黙って火を見ていた。薪の匂い。爆ぜる音。その温もりが、張り詰めた心を、少しずつほどいていく。
「昔の話を、してもよろしいですか」
ふいに、セラフィーナは口を開いていた。なぜ今、それを話したくなったのか、自分でもわからなかった。ただ、この人の隣にいると、閉じていた記憶の扉が、勝手に開いていく気がした。
「わたしがまだ、六つか七つの頃」彼女は、火を見つめながら語った。「戦がありました。ロズウェルの領にも火の手が迫って、わたしたちは北へ逃げたのです。凍えるような、冬でした」
大公の肩が、かすかに動いた。けれど彼は、何も言わず、耳を傾けている。
「逃げる道の途中で、わたしは、倒れている人を見つけました。若い、男の人。血を流して、雪の上に。供の者たちは、恐れて近づこうとしませんでした。でも、わたしは、なぜか放っておけなくて。凍った小川で水を汲んで、その人の唇を、濡らしてあげたのです」
語るうちに、あの冬の匂いが、鼻の奥に蘇ってくる。雪。血。冷たい水。
「その人は、掠れた声で、『ありがとう』と言いました。そして、震える手で、わたしの頭を、そっと撫でてくれた。誰にも見向きされない予備の娘だったわたしが、生まれて初めて、誰かに『ありがとう』と言われた瞬間でした。だから、忘れられないのです。顔も、名も、知らないのに」
言い終えて、セラフィーナは大公を見た。
彼の顔から、血の気が引いていた。青灰色の瞳が、大きく見開かれ、彼女を――いや、彼女を通して、遠い何かを、凝視している。
「大公様?」
「……その冬は」大公の声が、掠れていた。「いつの、戦だ」
「王暦、三百二年の……北境戦役の、末期だと聞いています」
薪が、ぱちりと爆ぜた。
大公は、何も言わなかった。ただ、震える手で、口元を覆った。まるで、口にしてはならない何かを、必死に抑え込むように。その沈黙が、どんな言葉よりも雄弁に、何かを叫んでいた。
「あなたも」セラフィーナの心臓が、痛いほど鳴った。「あなたも、あの冬に、北に」
「いや」大公は、絞り出すように首を振った。「なんでもない。気のせいだ。忘れてくれ」
けれど、その声は震えていた。彼は明らかに、何かに気づきかけている。そして、それを認めることを、恐れている。
なぜ、恐れるのだろう。セラフィーナは、震える夫の横顔を見つめながら訝った。もし、あの冬の怪我人がこの人だったなら、それは、二人を結ぶ、これ以上ないほど確かな糸のはずなのに。
けれど、と彼女は思い至って、胸が締めつけられた。この人は、顔を覚えていられない。ならば、たとえあの冬の怪我人が本当にこの人だったとしても、彼のほうは、水を運んだ幼い子の顔を、もう思い出すことができないのだ。確かめようがない。突き合わせるべき顔の記憶が、彼の中には、初めから残っていないのだから。
だから、恐れているのかもしれない。希望を抱いて、それが違ったときの、闇の深さを。あるいは、たった一つ「間違えない」あの感覚の正体に、触れてしまうことを。
「……もう、休むといい」大公は、静かに立ち上がった。けれど去り際、彼はふと足を止め、セラフィーナの髪に、そっと手を伸ばした。あの冬、震える手が幼い子の頭を撫でたように、ぎこちなく、けれど優しく。
「今宵は、ありがとう」
それだけ言って、彼は部屋を出ていった。
残されたセラフィーナは、撫でられた髪に、そっと触れた。この手の温もりを、遠い昔、どこかで知っている気がした。
二人の間に横たわっていた、名も像もない記憶。それが今、同じ一点を指して、静かに震えていた。まだ、繋がってはいない。けれど、あと少しで手が届く。そんな予感に、胸が締めつけられた夜だった。




