第17話 取り替えのきく娘
仮面舞踏会での失敗は、リゼットの誇りを、深く傷つけたらしかった。
数日後、大公邸を訪れた姉は、表向きは「妹に会いに来た」という体裁を取り繕っていた。けれど客間に通されるなり、その仮面は剥がれ落ちた。
「みっともないところを見せたわね」リゼットは、優雅に茶器を持ち上げながら、棘のある声で言った。「でも、たまたまよ。あの方が、たまたま右を選んだだけ。次は、こうはいかなくてよ」
セラフィーナは、姉の向かいに静かに座っていた。幼い頃から見慣れた、この高慢な横顔。人形も、菓子も、青い上着も、「似合うのはわたくしのほう」と取り上げてきた姉。
「姉様。もう、おやめください」努めて穏やかに、彼女は言った。「大公様は、わたしと姉様を、決して間違えません。何度試しても、同じことです」
「間違えないですって?」リゼットが、鼻で笑った。「人の顔も覚えられない男が? 滑稽な話ね。あの方はきっと、あなたに何か目印でも仕込ませているのよ。声色か、香水か。それさえ真似れば……」
「いいえ」
セラフィーナの声は、静かだったが、揺るがなかった。
「顔が同じでも、声を真似ても、あの人には分かるのです。理由は、わたしにも分かりません。でも、あの人はわたしを、この世でただ一人、間違えない。姉様には、決して、わたしにはなれません」
言いながら、セラフィーナは、自分の言葉に、自分でも目を見張っていた。かつての自分なら、こんなふうに姉に逆らうなど、考えもしなかった。俯いて、譲って、消えるように生きてきた。それが、予備の娘の処世術だった。
けれど今は違う。守りたい人ができて、初めて、譲れないものができた。それは、あの人が教えてくれたことだった。「取り替えのきく駒」ではなく、「たった一人の妻」として、迷わず選んでくれた、あの人が。
その一言に、リゼットの顔色が変わった。
妹が、生まれて初めて、真正面から言い返した。俯いて、いつも譲ってばかりだった予備の娘が。
「……生意気を言うようになったこと」。姉の声が、冷たく尖った。「いいこと、セラフィーナ。あなたは所詮、予備なのよ。わたくしが要らないと言ったから、あなたに回ってきた縁談。それを忘れて、いい気にならないことね」
「忘れてなど、いません」セラフィーナは、まっすぐ姉を見返した。「わたしが予備だったことも、姉様の身代わりだったことも、全部覚えています。……でも、それでも、あの人はわたしを選びました。予備でも、身代わりでもなく、わたしを。だから、もう譲りません。何があっても」
リゼットは、しばらく妹を睨んでいた。やがて、ふいに立ち上がると、捨て台詞のように言った。
「せいぜい、その座を守ることね。……守れるものなら」
絹擦れの音を残して、姉は去っていった。その足音が消えたあと、セラフィーナは、詰めていた息を、ようやく吐き出した。指先が、かすかに震えている。けれど、後悔はなかった。言うべきことを、言えた。生まれて初めて。
だが、事はそれで終わらなかった。
その夜、ギデオンが険しい顔で報告に来た。
「奥方様。リゼット様が、王都のヴェルナー侯爵邸に出入りしておられます。それも、幾度も」
セラフィーナの背に、冷たいものが走った。姉の企みと、侯爵の罠。二つが、はっきりと手を結んだのだ。
「侯爵は、リゼット様に『大公妃の座』をちらつかせているのでしょう」ギデオンが低く続けた。「姉君が妹君に成り代わり、その場で大公様が見抜けなければ――それは、大公様が『妻の顔すら分からぬ』動かぬ証となります。侯爵は、その瞬間を、公衆の面前で作り出そうとしている」
しかも、と老従者は声を落とした。「実家のロズウェル伯も、この企みに一枚噛んでおられるご様子。……娘を、道具として差し出すおつもりかと」
実家までもが。セラフィーナは、唇を噛んだ。父にとって、娘はいつでも取り替えのきく駒だ。姉のためなら、妹を陥れることも厭わない。
幼い日々が、蘇る。父は一度も、セラフィーナの名を、愛おしげに呼んだことがなかった。「予備」「次女」「もう一人のほう」。そう呼ばれ続けた娘は、いつしか、自分には名前などないのだと、思い込むようになっていた。その父が、今また、娘を道具に使おうとしている。姉の栄達のために、妹を、政敵の罠の駒として。
けれど、痛みの奥で、セラフィーナは奇妙なほど静かだった。もう、あの家に、期待するものは何もない。守るべきものは、この北の城と、あの人のもとにある。
「次の狙いは、どこだと思う」大公が、静かに問うた。
「おそらく、より公の場」ギデオンが答えた。「大勢の貴族が見守る、逃げ場のない場所。……そして侯爵は、その場から、必ず私と奥方様を引き離しにかかります。大公様を、たった一人にするために」
窓の外、王都の夜は、しんと静まり返っていた。けれどその静けさの底で、次の罠が、確実に牙を研いでいる。
「来るなら、来い」大公が、低く呟いた。「何度でも、私はセラフィーナを選ぶ。たとえ、世界中が入れ替わろうとも」
その言葉に、セラフィーナは、そっと拳を握った。信じよう。あの人の、「間違えない」という言葉を。それが、この戦いで、二人が握る、たった一つの武器なのだから。
「ただ、一つだけ気がかりがございます」ギデオンが、声を落とした。「侯爵は、なぜここまで執拗なのか。北境の軍権が欲しいだけなら、これほど危ない橋を渡る必要はない。……まるで、大公様の秘密そのものを、この世から消したがっているかのようです」
その言葉に、セラフィーナは、はっとした。もし侯爵が、禁呪を手引きした張本人ならば。大公の「貌喰い」は、侯爵自身の罪の、生きた証だ。だからこそ、彼は大公を、ただ失脚させるだけでなく、秘密ごと、闇に葬りたいのかもしれない。
考えれば考えるほど、その推測は、冷たく胸に食い込んでくる。北境の軍権を欲するだけなら、これほど手の込んだ、危うい橋を渡る必要はない。替え玉を仕込み、実家を抱き込み、公衆の面前で大公を辱める。そこまでするのは、単なる野心では、説明がつかない。もっと切実な――自らの身を守るための、必死さがあるのではないか。
「あなたの調べを、急いでください」セラフィーナは、ギデオンに向き直った。「侯爵が隠したい過去。それこそが、この戦いの、本当の鍵です」
老従者は、深く頷いた。その目に、十年追い続けてきた執念の光が、静かに燃えていた。




