第18話 逃げ場のない夜
罠の場は、思いのほか早く整えられた。
王家が主催する、盛夏の宴。建国祭を前に、王都じゅうの貴族が王宮に集う、この上なく公の場だった。断ることは、誰にもできない。国王その人が臨席するのだから。
「ここが、決戦の場になります」ギデオンが、招待状を前に、硬い声で言った。「これほど大勢の目がある場で、大公様が誰かを取り違えれば、もう取り返しがつきません」
宴の趣向は、またしても仮面だという。夏の精霊に扮した、仮面の宴。顔を隠すその趣向が、侯爵の息のかかったものであることは、もはや疑う余地もなかった。
「わたしが、必ずお傍に」セラフィーナが言いかけると、ギデオンが首を振った。
「それが、難しいのです」老従者の表情は、これまでになく暗かった。「侯爵は、此度こそ、私と奥方様を、確実に大公様から引き離すつもりでしょう。……宴の間、私には別の役目が割り当てられました。国王陛下への献上品の管理という名目で。断れば、王命に背くことになります」
ギデオンの耳打ちも、封じられる。セラフィーナの目も、引き離される。あらゆる支えを断たれて、大公は、仮面の海の中に、たった一人で立たされる。
「案ずるな」大公は、静かに言った。その声に、恐れはなかった。「支えがなくとも、私はそなたを見つける。そう、信じている」
けれど、その手が、わずかに冷たく汗ばんでいるのを、セラフィーナは見逃さなかった。強がっているのだ、と分かった。十年、あらゆる手立てで秘密を守ってきた人が、その手立てをすべて奪われようとしている。恐れないはずがない。それでも彼は、彼女に弱さを見せまいと、氷の仮面の下で、必死に平静を装っている。
「わたしも、諦めません」セラフィーナは、その冷たい手を、そっと両手で包んだ。「引き離されても、必ず、あなたの見えるところまで行きます。どんな人波をかき分けてでも。……あなたが、わたしを見つけられるように」
二人の視線が、絡んだ。言葉より確かな約束が、その一瞬に交わされた。
宴までの日々、二人は打てる手を、すべて打った。
セラフィーナは、宴に集うであろう主だった貴族の特徴を、いっそう入念に大公へ叩き込んだ。誰がどんな声か、どんな癖を持つか。けれど、仮面が声色まで隠し、替え役が背格好まで似せてくれば、その備えも、どこまで通じるか分からない。
「もし、わたしが間に合わなかったら」出立の前、セラフィーナは、思わず口にした。「もし、あなたを、一人にしてしまったら」
「そのときは、私が、そなたを見つける」大公は、迷いなく答えた。「案じるな。この十年、私が唯一、確かにできたことだ」
その静かな自信が、かえってセラフィーナの胸を締めつけた。この人は、たった一つの「確かなこと」に、すべてを賭けようとしている。その賭けが外れれば、失うのは、地位も、名誉も、そして、二人の未来も。
宴の夜が、来た。
王宮の大広間は、夏の精霊を象った、色とりどりの仮面で埋め尽くされていた。花の冠、蝶の羽、金銀の飾り。楽の音が高く鳴り響き、酒と花の香が、むせ返るほどに濃い。
案の定、宴が始まってすぐ、ギデオンは献上品の間へと呼ばれていった。ほとんど同時に、数人の令嬢たちが、セラフィーナを取り囲む。「大公妃さま、ぜひ庭の噴水を」「陛下がお召しですわ」――巧妙に、じわじわと、彼女を大公から引き剥がしにかかる。
抗おうとしても、人波と、王命という大義の前では、どうにもならない。気づけば、セラフィーナは大広間の反対側へ、追いやられていた。大公の姿は、仮面の海の彼方に、小さく霞んでいる。
そして、その大公のもとへ。
セラフィーナの心臓が、凍りついた。
人垣の向こう、大公の前に、姉が進み出るのが見えた。自分と寸分違わぬ、夏の精霊の仮面。同じ仕立ての、同じ色のドレス。まるで、鏡から抜け出したように。姉は、優雅に一礼し、大公の妻であるかのように、その隣へ立とうとしている。
しかも、姉は一人ではなかった。
その傍らに、もう一人、同じ装いの女がいた。侯爵が手配したのだろう、背格好までセラフィーナに似せた替え役。つまり、大公の前には、瓜二つの「妻」が、二人。そして本物のセラフィーナは、遠く引き離されて、声も届かない。
三人の中から、たった一人の本物を、選び出せというのか。顔も、声も、装いも同じ、三人の女の中から。
周囲の貴族たちが、異変に気づき始めた。「あら、大公妃が、三人?」「まさか、余興かしら」――ざわめきが、さざ波のように広がっていく。その中心で、大公が、静かに立ち尽くしていた。
遠くから、侯爵の姿が見えた。柱の陰で、勝利を確信した笑みを浮かべている。すべては、この一瞬のために仕組まれた。大公が、瓜二つの三人の前で、誰か一人でも取り違えれば――あるいは、迷って立ち尽くすだけでも、「大公は妻の顔も分からぬ」という証が、この王宮じゅうの目に、焼きつけられる。
セラフィーナは、人波をかき分けた。叫ぼうとしても、その声は、楽の音と喧騒に、無情に呑まれる。届かない。何も、届かない。
それでも、彼女は進んだ。約束したのだ。あなたの見えるところまで、必ず行くと。着飾った人々の間を縫い、扇に打たれ、裾を踏まれながら、少しずつ、大公のほうへ。せめて、彼の視界の端に。彼が、わたしを見つけられる場所に。
人の壁は、厚かった。宝玉と羽飾りの群れが、幾重にも彼女の行く手を塞ぐ。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。この人波の果てで、あの人が、たった一人、氷のような孤独の中に立たされている。支えも、合図も、すべてを奪われて。ならば、せめて自分だけは、その視線の届くところへ。たとえ、声が届かなくとも。
大公は、動かなかった。彼の前に立つ、瓜二つの二人の女には、目もくれず。まるで、もっと別の何かを、顔ではない、もっと確かな何かを、探すように、広間全体を、ゆっくりと見渡している。
その青灰色の瞳が、人垣の隙間を、静かに滑っていく。
セラフィーナは、必死に、背伸びをした。ここです。わたしは、ここにいます。声にならない声で、彼女は叫んだ。
広間じゅうが、固唾を呑んで、その一瞬を見つめていた。顔を覚えられぬはずの男が、いったい、どうするのか。そして、その静寂の底で、たった一組の視線だけが、見えない糸で、確かに繋がろうとしていた。




