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「冷酷」と噂の大公様は誰の顔も覚えられない。なのに私だけ、一度も間違えないのです  作者: フクベェ


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第19話 妻はこちらだ

 瓜二つの、三人の女。

 顔を隠す仮面。同じ色のドレス。似せた背格好。楽の音と喧騒。ギデオンの耳打ちも、セラフィーナの合図も、届かない。あらゆる手がかりを奪われて、大公は、三人の「妻」の前に立っていた。

 広間じゅうの目が、その一瞬に注がれている。柱の陰の侯爵は、勝利を確信して笑っていた。人波の彼方で、セラフィーナは声を失い、ただ祈ることしかできなかった。

 どうか。どうか、あの人の「間違えない」が、真実でありますように。

 大公は、動かなかった。三人の女を、順に見た。左の女。真ん中の女。右の女。仮面の奥の青灰色の瞳が、静かに、けれど確かに、何かを探している。

 だが、彼が見ていたのは、目の前の三人ではなかった。

 顔では、選べない。顔など、初めから見えていないのだから。声も、装いも、頼りにならない。ならば、彼が探すのは、たった一つ。十年、彼の中で決して消えなかった、あの感覚。目の前に「その人」が現れると、考えるまでもなく灯る、確かな標。

 彼の視線が、三人を通り過ぎ、広間の奥へと滑っていった。人垣を越え、着飾った群衆をかき分けて、必死にこちらへ近づこうとする、一人の女の姿を捉えて――止まった。

 やがて。

 彼は、ためらいなく歩み出た。目の前に並ぶ二人の「妻」には、目もくれない。人垣を割り、群衆の外れに辿り着いたばかりの、地味な立ち姿の女のほうへ、まっすぐに。そして、その手を取った。

 「妻は、こちらだ」

 低く、けれど広間の隅々まで届く声だった。


 広間じゅうが、息を呑んだ。

 大公が手を取ったのは、彼の前に立つ二人の「妻」ではない。人波に紛れ、遠く引き離されていたはずの、本物のセラフィーナだった。彼女は、必死に群衆をかき分け、たった今、大公の視界の端に辿り着いたばかりだった。誰の合図もなく、誰の耳打ちもなく、彼はその一人を、大勢の中から選び出した。

 どうして。声も届かなかった。合図もできなかった。それなのに、大公は、大勢の仮面の中から、迷わず彼女を見つけ出した。

 「なぜ、分かったのですか」震える声で、セラフィーナは囁いた。

 「わからぬ」大公は、彼女の手を握りしめた。「だが、そなたが広間に入ってきた瞬間、分かった。他の何が霞んでも、そなただけは、灯りのように見える。十年、そうだった。これからも、そうだ」

 その言葉に、セラフィーナの目の奥が、熱く滲んだ。顔でも、声でも、装いでもない。この人は、彼女の「存在そのもの」を、間違えない。それは、この世で最も確かな、たった一つの証だった。

 取り替えのきく娘、と言われ続けた。姉の予備、身代わり、もう一人のほう。誰にとっても、自分でなくてもよかった。そう思って、生きてきた。

 けれど、この人は違う。顔を覚えられぬこの人は、瓜二つの三人の中からさえ、迷わず彼女を選んだ。世界中が入れ替わっても、彼だけは、間違えない。ならば、自分は「取り替えのきく娘」ではない。少なくとも、この人にとっては、この世でただ一人の、取り替えのきかない人なのだ。

 その事実が、長い年月ずっと凍りついていた心の芯を、じんわりと溶かしていった。

 幼い日、姉の華やかな部屋の裏側で、格子の向こうの空を見上げていた娘。誰にも名を呼ばれず、いてもいなくても同じと思われていた娘。その娘が今、王宮じゅうの目の前で、この世でただ一人の存在として、選ばれている。かつての自分に、教えてやりたかった。いつか、あなただけを間違えない人が、必ず現れるのだと。


 残された二人の「妻」が、凍りついていた。

 「そんな……ばかな」姉リゼットが、仮面の下で、掠れた声を漏らした。「顔も、声も、同じにしたのに。人の顔も覚えられない男が、どうして……!」

 その動揺した声が、皮肉にも、姉自身の正体を、周囲に晒した。ざわめきが、広間に広がる。「あの声は、大公妃ではないわ」「では、あちらが偽者?」「なんという、悪趣味な余興。いえ、これは……」

 貴族たちの目が、みるみる冷たくなっていく。大公の妻に成り代わろうとした、二人の偽者。その企ての醜さが、衆目の前に、露わになっていく。

 「わたくしは、っ」リゼットが、何か言い訳をしようとした。けれど、言葉は続かなかった。誰も、彼女の味方をしなかった。取り替えのきくのは、妹ではなく、企みに使われて捨てられる、自分たちのほうだったと、今さら、姉は悟ったのかもしれない。

 二人の偽者は、逃げるように、広間をあとにした。

 あとに残ったのは、大公と、その手に守られたセラフィーナ。二人を見る貴族たちの目は、もはや、侮りのものではなかった。

 「まあ……なんて、確かな絆かしら」「顔を覚えられずとも、あそこまで妻を想えるものなの」――囁きの色が、羨望へと変わっていく。この夜、王宮に集った貴族たちは、意図せず、一つの光景を目撃してしまった。顔でも、家柄でも、装いでもなく、ただ「その人だから」選ばれる。そんな、稀有な絆の証を。

 セラフィーナは、大公の腕の中で、静かに目を閉じた。長いあいだ、自分は「誰かの代わり」でしかなかった。けれど今、王宮じゅうの目の前で、この人はわたしを、たった一人の妻だと示してくれた。その温もりが、じんと、胸の奥に染みていく。


 柱の陰で、ヴェルナー侯爵の笑みが、凍りついていた。

 完璧な罠だったはずだ。あらゆる支えを断ち、瓜二つの三人を並べた。それでも、大公は間違えなかった。理屈では、あり得ない。だが、現に、大公は見抜いた。

 侯爵は、静かにワイングラスを置いた。その顔から、余裕の笑みが消えていた。代わりに宿るのは、底冷えのする、静かな敵意。

 彼は、大公夫妻のほうへ、ゆっくりと歩み寄った。そして、二人だけに聞こえる声で、囁いた。

 「見事なものだ、ノルディア卿。……だが、こんな座興で、いつまで隠し通せるとお思いか」

 その目が、氷のように光った。

 「建国祭の、臣従の礼。王と、すべての貴族の御前で、顔と名を確かめ合う、あの神聖な儀式で、貴殿が本当に、人の顔を見分けられるのか、確かめさせてもらう。今宵のような、妻の小細工の通じぬ場所でな」

 言い残して、侯爵は去っていった。

 勝ったはずの夜に、より大きな脅威が、はっきりと姿を現した。顔を確かめ合う、あの儀式。逃げ場のない、公開の処刑台。そこで待つ最後の戦いへ向けて、時計の針は、確実に進み始めていた。


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