第20話 処刑台の日取り
替え玉を退けた夜から、宮廷の空気は、目に見えて変わった。
「顔を覚えられぬはずの大公が、瓜二つの三人から、迷わず妻を選んだ」――その噂は、翼を得たように広まった。ある者は感嘆し、ある者は訝しんだ。そして、その噂こそが、ヴェルナー侯爵の次の一手の、燃料になった。
「おかしいとは思わぬか」侯爵は、宮廷のあちこちで、静かに囁いて回った。「人の顔を見分けられぬという噂の男が、あの夜に限って、寸分違わぬ三人から妻を選び出した。……普段の、初対面のごとき無愛想は、では何なのか。あの男は、都合よく『見分けられる』のではないか。何か、後ろ暗いものを、隠しているのではないか」
替え玉を見抜いた勝利が、皮肉にも、大公の秘密への疑いを、いっそう深めていた。守れば守るほど、綻びが目立つ。それが、貌喰いを抱えた者の、逃れられぬ矛盾だった。
しかも、あの夜の顛末は、貴族たちの好奇心を、妙な方向へ煽っていた。「あの大公妃は、いったい何者か」「なぜ大公は、あの女だけを間違えぬのか」。二人の絆そのものが、今や、宮廷じゅうの噂の的だった。ある夜会の帰り、セラフィーナは、すれ違いざまに投げられた言葉を、耳にしてしまった。「魔女ではないかしら。あの女が、大公に何か術をかけているのよ」。根も葉もない中傷。けれど、そういう囁きこそが、じわじわと、二人の足元を掘り崩していく。
大公邸の一室で、三人は額を寄せていた。
「侯爵は、臣従の礼を、確実に処刑台にするつもりです」ギデオンが、宮廷から得た情報を告げた。「あの儀式では、貴族が一人ずつ王の御前に進み、互いに顔と名を確かめ合って、忠誠を誓い直します。……侯爵は、その場で大公様に、多くの貴族の顔を、次々と照合させる趣向を、陛下に進言しております。和約十周年の、特別な儀礼として」
「顔を、確かめ合う」大公が、低く繰り返した。「私に、最も不可能なことを、王の御前で、公然と」
もし、そこで一人でも取り違えれば。あるいは、名を言い淀めば。「大公は人の顔を見分けられぬ」という証が、国王と全貴族の前に、晒される。呪いを帯びた者は、爵位にも要職にも就けぬ。それが、この国の掟だ。大公位も、北境の軍権も、その瞬間に、すべて失われる。
「建国祭までは、あとどれほどだ」
「ひと月と、少し」ギデオンが答えた。「時は、あまりに短うございます」
セラフィーナは、卓の上で組んだ手を、じっと見つめた。今度ばかりは、替え玉のときのようにはいかない。臣従の礼は、王の定めた神聖な儀式。妻が隣で囁くことも、扇の合図も、許されない。大公は本当に、たった一人で、大勢の顔の海に立たされる。
しかも、儀式で照合を求められるのは、初対面同然の貴族たちだ。替え玉のときのように「セラフィーナだけを見つける」わけにはいかない。次から次へと進み出る顔を、正しく名で呼び続けねばならない。それは、貌喰いを抱えた者にとって、文字どおり不可能な試練だった。
「一人ずつ、覚えていくことは、できませんか」セラフィーナは、藁にもすがる思いで問うた。
「無理だ」大公は、静かに首を振った。「儀式には、数十の貴族が並ぶ。一人覚えれば、前の一人が消える。砂を、両手で掬うようなものだ」
その諦めきった声に、セラフィーナは唇を噛んだ。真正面から挑めば、勝ち目はない。ならば。
彼女は、目を閉じ、これまでの戦いを、一つずつ、思い返した。替え玉の夜、大公が勝てたのは、顔で戦わなかったからだ。顔で見分けようとせず、彼だけに見える「灯り」で、彼女を選んだ。ならば、この儀式も同じ。顔照合の土俵で戦う限り、勝ち目はない。土俵そのものを、変えねばならない。相手の得意な盤の上で指すのではなく、盤ごと、引っくり返すのだ。
「正面から戦えば、負けます」セラフィーナは、静かに切り出した。「顔を確かめ合う儀式で、顔を覚えられぬ人が勝つ方法は、ありません。……ならば、戦う場所を、変えるしかない」
「どういう意味だ」大公が問う。
「侯爵が『正論』を武器にするのなら」彼女は、まっすぐに二人を見た。「その正論を、侯爵自身に返すのです。あの人が、大公様を裁く資格を持たない。それを証すれば、儀式の刃は、そっくり侯爵へ向きます」
三人の視線が、ギデオンに集まった。老従者は、深く頷いた。
「私が、十年追ってきた線。禁呪を帝国に手引きした、内通者。……その影は、いよいよ、あの侯爵に重なりつつあります。かつて侯爵の密使を務めた男が、北の辺境に隠れ暮らしている。その男の証言と、当時の書付さえ手に入れば……」
「呪いを負わせた張本人が、その呪いを口実に、大公様を裁こうとしている」セラフィーナが、あとを継いだ。「その事実を、臣従の礼の場で、暴くのです」
処刑台を、逆転の舞台に変える。それが、この戦いの、唯一の勝ち筋だった。顔を確かめ合う儀式で、大公が裁かれるのではない。その儀式の場でこそ、真に裁かれるべき者が、裁かれる。舞台は、そのまま。役者の立ち位置だけを、そっくり入れ替える。
「時が要ります」ギデオンが、表情を引き締めた。「北の辺境まで、人をやり、証人を連れ戻す。書付を探し出す。……建国祭までに、間に合わせねばなりません」
「頼む」大公が、深く頷いた。「私の秘密を守るためではない。この国を、真に裏切った者を、白日の下に晒すためだ」
その夜、ギデオンは、腹心の者を北の辺境へと発たせた。証人を捜し、連れ戻すために。往復だけでも、十日を超える道のり。しかも、証人が今も生きている保証も、口を割る保証も、どこにもない。
「間に合うでしょうか」二人きりになったとき、セラフィーナは、思わず弱音を漏らした。
「わからぬ」大公は、正直に答えた。それから、そっと彼女の頬に触れた。「だが、そなたが隣にいる。それだけで、私は十年ぶりに、恐れよりも、望みのほうを、多く抱いている」
その言葉に、セラフィーナは、彼の手に、自分の手を重ねた。処刑台になるはずの日を、二人の未来を懸けた、逆転の舞台に変える。無謀な賭けだ。けれど、この人となら、賭けてみたいと思った。
「勝ちましょう」彼女は、静かに、けれど確かに言った。「あなたの呪いも、わたしの過去も、全部抱えて。あの儀式の日に、必ず」
窓の外、王都の空に、夏の入道雲が、白く湧き上がっていた。建国祭まで、あとひと月あまり。二つの時計――秘密を守る時計と、真実を暴く時計が、同じ一点に向かって、いよいよ本格的に、時を刻み始めた。




